第50話 刺客始末
グレナダには、何が起こっているのか全く分からなかった。
自分を
見間違いではない。見間違えであろうはずがない。彼の身体へと鉄の爪が容赦なく食い込んでいくのを、グレナダはその目ではっきりと見たのだ。
ところが、まばたき一つする間に何が起こったのか……。
ズタズタに切り裂かれたはずの、イルの身体には傷一つなく、それどころか、黒づくめの暗殺者たちが、盛大に血を噴き出しながら地面に崩れ落ちたのだ。
血を失い過ぎて幻覚を見ているのではないか? グレナダは自分の目を疑う。だが、何度まばたきしても、
黒づくめの暗殺者の内三人は、やはりイルの足下に転がったまま身じろぎ一つしない。零れ落ちた血が石畳の継ぎ目へと流れ込み、カンテラの灯りの下に、紅い
「助けてやるから、一生、恩に着やがれ」
押しつけがましいその物言いは、まさにクズそのもの。こんな状況だというのに、その声音には
まさか、このクズ男は実力を隠していたとでもいうのだろうか?
だが、グレナダの理性が、それを完全に否定する。
雑な足さばき、羽虫の止まりそうな
だが、そんな男が一瞬にして、グレナダすら敵わなかった暗殺者を、瞬時に三人も打ち倒したのだ。
偶然なのだろうか? 奇跡なのだろうか? 何が起こったのかは全く分からないが、いずれにせよ、そんなモノが何度も続くはずが無い。黒い甲冑の騎士、アイツはただの衛士が偶然や奇跡で勝てるような相手では無いのだ。
途切れそうになる意識を必死に繋ぎ止めながら、グレナダは
「に、にげ……ろ、偶然は続かん……ぞ。そいつ、は、近衛騎士団第、よ、四位の……グラントベリ……だ!」
「だとよ。バレてんぜ、アンタの正体」
「フッ……仕方あるまい」
イルが
現れたのは上品で色白、眉の上で髪を切りそろえた若い男の顔。傲岸不遜な雰囲気を色濃くにじませた貴族らしい男の顔だった。
「なぜ……だ! グラントベリッ!」
グレナダが苦悶の内に睨みつけると、グラントベリと呼ばれたその男は、
「なぜ? 貴様にそれを教えてやる義理は無いな。ただ……私個人としては貴様を排除出来る良い機会だったがな。貴様のせいで、私はずっと第四位のままだったのだから」
思わず口惜しげに下唇を噛み締めるグレナダ。それを満足げに見下ろして、グラントベリはイルの方へと視線を向けた。
「しかし、只の衛士だと思っていたのだがな。やるではないか。恐ろしいほどの速さだ。剣を抜いた様子も見えなかったぞ」
「実際、抜いてねぇからな」
「抜いてない? 砂漠に住まう蛮族が、剣を鞘に収めた状態から斬りつける面妖な剣術を使うと聞いたことがあるが、その
「さあな、確かめてみるかい? お坊ちゃん」
イルが挑発的に手招きすると、グラントベリは一瞬不快そうに眉を顰めた後、すぐにまた薄ら笑いを浮かべる。
「ふっ、調子に乗るなよ、下郎。速さならば私は誰にも負けん。剣速に限れば、そこの女も私の敵ではない」
グラントベリは芝居がかった調子で、大袈裟に肩を竦める。
「だが、それを貴様に見せてやることは無さそうだ」
その瞬間、グレナダは思わず息を呑む。気が付けば、残り二人の暗殺者の姿が見当たらない。不覚。騎士にあるまじき不覚。グラントベリに気を取られ過ぎた。
「ど、どこだ!」
グレナダが慌てて声を上げるも、もう遅い。いつの間にか忍び寄っていた暗殺者たちが、暗闇に紛れて左右からイルに襲い掛かったのだ。
だが――
「で、速さがなんだって?」
イルがつまらなさそうにそう口にするのと同時に、暗殺者二人は一斉に脇腹から血を噴き出して、その場に倒れこんだ。
「「な!?」」
グレナダとグラントベリの驚愕の声が重なり合う。これはもう、どう見たって速度の問題ではない。グレナダは回らない頭で必死に考える。一体、この男は何をしたというのだ。だが答えは見当たらない。いくら思い返してみても、このクズ男は指一本動かしてはいなかった。にもかかわらず暗殺者たちは傷つき、地面にその身体を打ち付けたのだ。
だが、それはグラントベリも同じなのだろう。彼は二歩三歩と後ずさりながら、声を上擦らせる。
「き。貴様は、い、一体、何者だ!」
その瞬間、イルは口角を上げて、ニタッと邪悪な笑みを浮かべた。
「……
思わず息を呑む音が三つ響いた。グレナダ自身のもの。グラントベリのもの。そして馬車の中から聞こえてきたのは、姫殿下のものだろう。
「偽もんのクセに偉そうに
「ふ、ふざけるな!
声を震わせて取り乱すグラントベリを全く無視して、イルはキョロキョロと周囲を見回すと、地面に転がっていた小枝を拾い上げる。
「まあ……こいつなら大して痛くねぇだろ」
指先で小枝をしならせながら一人頷くと、彼はグラントベリの方へと向き直って、挑発するようにその小枝を突きつけた。
「いいぜ、お坊ちゃん。さあ、かかってきな!」
「ふざけるなぁああああ!」
その余りにもふざけた態度は、グラントベリを暴発させるには十分だった。嘗めている。嘗められている。栄光ある近衛騎士にたかが衛士が! グラントベリの眉間に深く
その剣先が寸分たがわず、イルの心臓を刺し貫こうとしたその時――
「な、なにぃ!?」
グラントベリは上擦った声を上げた。
枯れ枝が折れるような渇いた音を立てて、彼の剣がへし折れたのだ。弾け飛んだ剣先が、カランカランと音を立てて石畳を打つ。生意気な衛士が、喉の奥で「きひっ」と
「はい、残念でした」
それはイルに宿った呪い――『
小枝を人に突きつければ、小枝は折れる。剣を人に突きつければ、人は傷つく。
それを入れ換えた。
呆然とするグラントベリ。隙だらけの黒騎士に、イルは甲冑の継ぎ目を狙って小枝を突き出した。肩口、次に
「ぐぁあああああ!」
グラントベリは悲鳴を上げて、石畳の地面を転げまわる。手から零れ落ちた剣の
「き、貴様! よ、よくも! 私は騎士、騎士なのだぞっ! ふぶおっ!」
怒りに満ち満ちた声。目を血走らせて身を起こそうとするグラントベリ。だが、イルはその髪をひっ掴むと、力任せに石畳へとグラントベリの顔面を叩きつけた。
「騎士騎士、うるせぇ」
それで終わり。イルは
姫殿下は驚き顔のまま硬直している。グレナダは馬車にもたれ掛かったまま意識を失っていた。死んではいないようだが、このままではそれも時間の問題だろう。顔色は既に土気色、状態はかなり悪い。
正直グレナダが死のうと何とも思わないが、助けてやると言ってしまった手前、死なれてしまっては恰好が付かない。
「おい、銀猫! 見てんだろ、手伝えよ!」
イルが何処に向かってか、そう声を上げると、ガラス玉のような目をした銀髪の少年が、ふらふらした足取りで路地の暗闇から歩み出てきた。
「やはりオマエはアホだな、
「うっせ、いいから手伝え」
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