第45話 無敵の善意

 リムリムがステージで、いつもにも増して情熱的な踊りを披露している頃、王宮へと続く大通り、石畳の道を、一両の馬車が北へと走っていた。


 決して大きくはないが、金細工の飾りもきらびやかな二頭立ての高級馬車キャリッジである。イルは、そのキャビンの中で質の良い皮張りの座席に腰を下ろしたまま、ガチガチに硬直していたのだ。


(……なんでこうなった)


 イルは、冷や汗を手の甲で拭いながら考える。


 今のところ、姫殿下に襲い掛かってくるような者は誰もいない。兆候すら見当たらない。だから、この状況は依頼を果たすという意味では、願ってもないことに違いないのだが、このままじゃ誰かを殺す前に俺が死ぬ。心労で。


 彼の向かいには、楽しげに微笑む姫殿下の姿。そしてその隣には、苦虫をこれでもかと噛み潰したかのような顔をしたグレナダが、剣の柄に指を掛けながらじっと彼のことを睨んでいる。


(いやぁ……視線で人って殺せるんだなぁ)


 イルは本気でそう思う。だが、自分でも忘れているようだが彼は本来、殺す側の人間である。ちょっとしたアイデンティティの危機であった。


 それはともかく、そもそも『数日の間、姫殿下のお傍で安静にしていれば』などと口にしたのは、イル自身である。だが、それは姫殿下が衛士詰所に滞在している間だけのつもりだったし、グレナダもそういう前提で怒り狂っていたはずなのだ。まさか、姫殿下がそれを額面通りに受け取るなどとは、誰も想像すらしていなかった。


 だから――


「じゃあ、イル。そろそろ王宮に帰りましょう」


 姫殿下がそんなことを言い出した時には、不覚にもイルとグレナダは、互いの立場も忘れて顔を見合わせてしまった。思わず硬直する二人。先に我に返ったのはグレナダだった。


「ひ、姫殿下! ま、ま、ま、まさか! このクズを王宮に連れ帰るおつもりですか!?」


「ええ、私のこと、王家のことをよく知っていただいて、その忠誠を捧げていただけるように努めるつもりです。それにワタクシも、イルとはもっとお話したいですし」


 すなわち、ここから数日の間、姫殿下の側に四六時中はべれと……どうやらそういうことらしい。


 流石は王族……いや、これは姫殿下の資質なのだろう。彼女の中には善意しか存在しない。あまりにも警戒心がなさすぎる。


 もちろんグレナダは取り乱しまくって反対もしたし、イルも必死に言葉を尽くして辞退しようとした。だが、姫殿下は無邪気に微笑みを浮かべながらも、想像を絶するかたくなさで、自分の意志を押し通したのだ。


 恐るべし完全なる善意。もはや無敵である。


「善いことをするのに、躊躇ちゅうちょする必要がありますか?」


 そう言われてしまえば、イルもグレナダも沈黙するしかない。そんなわけでグレナダの殺意に満ち満ちた視線にメッタ刺しにされながら、イルは王宮に到着するまでの間、身じろぎ一つ出来ずにいたのである。



 ◇ ◇ ◇



「爺、彼に部屋を。ワタクシの部屋の隣をね。それと食事の支度をお願い」


 王宮に辿り着くと、姫殿下は待ち受けていた老齢の執事に命じて、イルの部屋を用意させる。


 イルも衛士の端くれである。王宮に足を踏み入れるのは初めてではない。とはいっても、王太子殿下の訓示を受けるために、庭先に集められた一度きり。建物に足を踏み入れることなどもっててのほかである。


 身分不相応とはまさにこういう事を言うのだろう。今もピカピカに磨き上げられた大理石の床を、自分の小汚いブーツが踏んづけていることに、居た堪れない気持ちになっている。


 そんな、どこからどう見ても下級の衛士でしかないイルを眺めて、老齢の執事が怪訝そうに眉根を寄せた。いや、まあ、そりゃそういう顔になるでしょうよ。


「あの……姫殿下」


「爺、余計な気を回さなくて結構ですわよ」


 姫殿下のその一言に執事は、「かしこまりました」と恭しく頷いた。


 執事の後に続いて姫殿下。その更に後をイル。そして最後尾を、殺意のこもった眼差しでイルの背中を睨みつけながらグレナダが歩いていく。

 

 何気なく廊下に飾られている置物一つとってみても、イルが一生かかっても買えそうにないぐらい高そうに思えて、無駄に身体が強張こわばる。その上、背後からは、おかしなことをしたら叩ききってやる。と、言わんばかりの剣呑な視線に貫かれているのだ。。


(……帰りたい)


 まさに、心の叫びであった。


 イルが、胸の内でそう声を上げたのとほぼ同時に、廊下の奥から、こちらへと向かってくる足音が聞こえてきた。目を向けてみれば、それはグレナダが纏っているのとよく似た、豪奢な全身甲冑フルプレートを着込んだ二人の男。


 一人は三十代半ばほどだろうか。後ろに撫でつけた長い黒髪に精悍な顔立ち。背は高いが大柄という訳ではなく歌劇の俳優のようなすらりと均整の取れた美丈夫である。一方、もう一人はというと、刈り込んだ短い髪に細い目。人間よりもどちらかといえば熊の方が近いのではないかと思えるような大男である。


 彼らは姫殿下の姿を目にすると、道を譲って片膝をついた。


「サイクスにベルモンド、こんな時間にどうしたのです?」


 姫殿下は二人に立ち上がるように促しながら、そう尋ねる。


「はっ、御前会議が長引きましたもので」


「ああ、そうなのですね。ご苦労さまです」


 姫殿下の発言から推測するに、恐らく前者がくだんの騎士団長サイクス。後者がベルモンドなのだろう。地位も名誉もあって美男子。その上、こいつがすべての元凶なのだ。自然イルの目つきが悪くなるのも仕方がないことである。まあ、そもそも目つきは悪いのだが。


 イルのその視線に気づいたのか、サイクスがちらりとイルの方へと目を向けて、首を傾げた。


「そちらは?」


「イルですわ。東門詰所の衛士の一人ですけれど、王家とワタクシのことをよく知ってもらうために、側にはべることを許しましたの」


 すると、サイクスは「ほお」と感心するような声を漏らした。


「なるほど、流石は姫殿下です。卑しい者にも分け隔てない慈愛の御心は尊い。なかなか出来ることではございません」


 そして、イルの方へ歩み寄ると親しげに肩に手を置いて、ニコリと微笑んだ。


「イル君と言ったか。姫殿下が目を掛けるということは、君には相当に見どころがあるのだろう」


「そんなことありませんってば」


「ええ、団長、こいつはただのクズですから!」


 イルが口を開くや否や、グレナダがそれを遮るように口を挟んでくる。すると、サイクスが「ははは」と声を上げて笑った。


「いやはや、姫殿下だけではなく、グレナダまでその様子とは……。いよいよ面白い。どうだね、イル君。我が近衛騎士団は実力主義だ。今度、入団試験を受けてみるといい」


「団長!?」


 グレナダが素っ頓狂な声を上げた。だが、サイクスはそれを気にも留めずに話を続ける。


「私自身、商家の生まれでね。さる高貴なお方にお引き立ていただいて、身に余ることではあるが、近衛騎士団の団長を務めさせて頂いている。もしかしたら、私の後の団長は君かもしれんな。うむ、これは楽しみだ。姫殿下のお顔に泥を塗ることの無いよう、精一杯励みたまえ!」


「団長殿! この男は貴族でもない只の庶民、それもどうしようもないクズ男です! おたわむれとはいえ軽々しく次期団長などと……」


 グレナダ嬢がたまらずそう口にすると、サイクスはそれをギロリと睨みつけて、こうたしなめる。


「グレナダ、君はまだ自分が貴族の生まれであることを振りかざすのかい? 君も姫殿下の深いお考えも察せられぬほど、愚かな訳ではあるまい?」


 お考えって……。それ、アンタの深読みが過ぎるだけだと思うぞ。


 実際、サイクスが『姫殿下のお考え』と口にしたとき、姫殿下自身はきょとんとしていた。


(それよりも、そんな焚きつけるようなこと言ったら……)


 イルはくやしげに奥歯を噛み締めるグレナダの方をちらりと窺って、ため息を吐く。


 グレナダがイルへと向けてくる視線が、どう見ても嫌悪から憎悪へと変わりつつある。サイクスの表情を見る限り、そうなることが分かっていて煽ったような雰囲気もあって、イルはこの二人の関係はあまり良好ではないんじゃないか。と、そう思った。


「では姫殿下、私たちはこれで。イル君、期待しているぞ! いつでも宿舎を訪ねてくるといい!」


 姫殿下とイルにそう言うと、二人はグレナダには目もくれずに通り過ぎていった。


 えーと……俺は、一体何を期待されたのだろう?


 二人が去ってしまった後に残されたのは、何だか良く分からないけれど、褒められた気になって上機嫌の姫殿下。極限近くまで機嫌の悪化したグレナダ。そして、そんな姫殿下とグレナダの間に囚われたイルである。


 大惨事であった。

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