第44話 家族の定義
リムリムは長屋を出た。
陽は沈みつつあるというのに、外は未だに蒸し暑い。真夏の陽光に熱せられた地面が、モワッと余熱を放っていて、少し歩いただけでも、じわりと汗ばむ。
ただでさえ布地の少ない衣装の胸元を引っ張って、パタパタと
「アタシが誘惑したいのは、アンタらじゃないんだっての」
小声でそう吐き捨てながら、彼女は思いを巡らせた。
あの口やかましい義妹との話し合いに、何らかの決着がついた訳ではないけれど一時休戦。それも仕方がない。
不本意だけれど仕事がある。今夜もあの一杯呑み屋で二回、
『アイツの目は嫌い』という一点を除けば、愛人志願の女と女房きどりの妹では、どう考えたって相容れる訳がない訳だし、このまま不毛な罵り合いを続けることになるなら、いっそ
でも、こんなところで
少し引っかかっているのは、出掛けにシアが放った一言。あまりにも突飛すぎて「何言ってんだコイツ」と、義妹と二人、立場を忘れてついつい顔を見合わせてしまったけれど、何をどう考えてあんなことを言い出したのかは、ちょっと気になる。
それにしても――
「あーあ、行きたくないなぁ……」
思い起こしてみれば、なにもあんな衆人環視の下で、アイツにせまる必要は無かったのだ。ちょっとした騒ぎになってしまったおかげで、あの一杯呑み屋に顔を出すのにも、ちょっとばかりの勇気がいる。
だけど……無理なものはどうやったって無理だった。抑えきれないってのは、ああいう事を言うのだと今なら分かる。アイツとなら子供を持てる。そう思い至ってから、ずっとアイツのことばかりを考えてしまっていた。考えれば考えるほどに抑えが効かなくなって、ちょっとばかり言葉を交わしただけで、想いが溢れ出てしまったのだ。
「って言っても、どんな
一杯呑み屋の親父さんと、給仕の女の子の引き攣った微笑みが目に浮かぶ。
うん、やっぱ気まずい。
だが、いくら気が進まなくとも、歩みを止めなければ、当然いつかは辿り着く。彼女が歓楽街の入口辺りに差し掛かると、鼻先に大きな刀傷のある
彼女はリムリムの姿を見つけると、わざとらしいことに「恵まれない子供たちにお恵みを!」と、一層声を張り上げる。それを無視して通り過ぎようとすると、彼女は「ちょ、ちょ、ちょっと、無視はねーよぉ、リム姉さんってば!」と、素に戻って後を着いてきた。
彼女の名はジゼル。
でっかい顔の傷と、ろくすっぽ櫛も通していないボサボサの赤毛のせいで、けっこう老けて見えるのだが、よく見れば意外とかわいい顔をしている。実は彼女はまだ十八歳。リムリムよりも二つ年下なのだ。
それほど深い関係という訳ではないけれど、彼女とはこの町に流れ着いた頃からの古い付き合いではある。
リムリムはため息交じりに足を止め、彼女の方へと振り返る。
「アンタねぇ……。そんな毎日、毎日、恵んでられないってーの!」
「えー! そこを何とか! お願いだよ、姉さん。実は今月、弟たちの誕生日が重なってて、ヤバいんだってば。お願いしますってば、ね! ね! あ、そうだ! 一回、一回だけ懺悔、ただで聞くからさぁ」
「うん、まず、人の懺悔で金取ろうってのがおかしいことに気づけ」
「そんなことねーってば。腹ン中にある余計なもん捨てさせてやって、楽にしてやろうってんだから。それぐらい安いもんでしょうよ。慈善事業じゃあるまいし」
「
リムリムは呆れたと言わんばかりに首を竦める。ただ、『楽になれる』という一言は、今の彼女には軽く刺さるものがあった。最初のステージには、まだ小一時間はある。
「……ったく」
そう言いながら、リムリムは小銭を取り出すと、一番手近にいた男の子を手招きして呼び寄せ、その藤籠に投げ込んでやる。
「えへへ、毎度あり!」
満足げに男の子の頭を撫でまわすジゼル。するとリムリムは、そんな彼女の方へと顔を向けて口を開いた。
「じゃあ、アンタ。アタシの話、聞いて貰うわよ。ただで話を聞くって、確かに聞いたからね」
「へ? 今から?」
「決まってんじゃない、今からよ」
「はあ、姉さんもまた急だねぇ、で……どんな話さ」
「え、あの、その……」
話を聞けと言っておきながら、いきなりモジモジしはじめるリムリムに、ジゼルは怪訝そうに片眉を跳ね上げる。
「どうしたってんだよ、姉さんらしくねーな」
そして、リムリムは指先をくっつけたり離したりしながら、上目遣いにこう問いかけた。
「その……アンタ、男に抱かれたことある?」
「聖職者になに言わせる気だ」
ジゼルは思わず、真顔でそう答えた。
◇ ◇ ◇
「ひゃっひゃっひゃっ」
「そんなに笑わなくたっていいじゃないのさ!」
腹を抱えて笑い転げるジゼルに、リムリムがムゥと頬を膨らませる。
あの後、子供たちを先に教会へと帰らせて、リムリムとジゼルは歓楽街の入口近くの食堂に入った。
リムリムの奢りで頼んだライム水を手に、最初から興味津々といった雰囲気のジゼル。彼女に昨晩からの出来事を掻い摘んで話をすると、この大爆笑である。
「ごめん、ごめん。もうね、姉さんが、あのクズ男に迫ったってだけで面白すぎて」
「しかたないじゃないのよ。子供が欲しけりゃ……その、アイツしかいないんだからさぁ」
「はあ、そりゃあまあ、難儀な話だねぇ」
ジゼルは肩を竦める。
流石にリムリムの宿している呪いの話をする訳にはいかないので、彼女には、『リムリムは特殊な病気で、決まった人間との間にしか子供ができない』と説明したのだ。
「ふーん、でも姉さんだって、
「ば、ばーか! ない! ない! ない! んな事ある訳ない! し、仕方なくなんだからさ!」
「ほんとにぃ?」
「そ、そりゃあ、最初は腹立つ奴だなーと思ったけど、よく見たら意外とかわいい顔してるし、照れたり焦ったりするところは、まあ可愛いなって思ったりもするけど、それだけ! それだけだから!」
(……いや、十分でしょうよ)
ジゼルはそう思ったが、そのままにしておいた方が面白そうなので、口には出さなかった。
「まあ、姉さんがクズ男のことは大嫌いってのは分かったけどさ」
「大嫌いって訳じゃ……」
「ま、細かいニュアンスはどうでも良いんだけどさ……。なんで、そんなのに抱かれてまで子供が欲しいのかねぇ?」
「なんでって……アンタなら分かって貰えると思ったから、こんな話してるんだけど?」
「そりゃあね、姉さんもアタシも親無しだからさ、普通の家族ってのに憧れがあるのは分かるんだけど……」
ジゼルは手にしたライム水を
「じゃあ、聞くけどさ。姉さん、家族って一体、なんなんだろうね」
「何って、そりゃぁ血の繋がった親がいて、子供がいて、兄弟がいて……」
「でも、夫婦ってのは血のつながりはねーよな? 一番近いはずの家族が、実は他人同士ってのはどう考えりゃいいのさ」
「そ、そりゃあ、子供が出来たら、子供経由で血が繋がる……ってことになるんじゃないの?」
「ふーん。でも、ウチの弟たちはみんな身寄りのない孤児ばっかりで、もちろん血は繋がってないんだけどさ。アタシは、あの子たちのこと『家族』だと思ってんだよね」
思わず顔を上げるリムリムに、ジゼルはニカッと歯を見せて笑った。
「アタシは学がねーから、上手く説明できないけどさ。血がつながってるかどうかって、実は大したことねーんじゃないかなぁって」
(なるほど。だから、シアはあんなことを言い出したんだ)
ジゼルのそんな話に、リムリムは思わず納得しそうになる。だが――
(それでも、アタシには血の繋がった子供が必要なんだ。呪いに復讐するには、血の繋がった家族じゃなきゃいけないんだ)
と、無理やり踏みとどまった。
なんだか無性に、あのクズ男の顔が見たくなった。
ステージが跳ねる頃には、きっとアイツも家に戻っていることだろう。今夜もう一度、あの長屋を訪れてちゃんと話をしよう。
リムリムはそう思った。
だがその日、イルが長屋へ戻ってくることは無かったのだ。
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