第41話 世の中、何かが間違えている。
「ふわぁあぁぁ……」
「しっかし、昨日は酷い目にあっちまったなぁ」
普段より二刻ほども早く長屋を出たイルは、眠気の
昨日とは言ってみたものの、実際のところ、昨日と今朝とは一度の中断もなく続いている。
口火を切ったのは、リムリムだった。
長屋に辿り着いた途端、「アタシ、コイツの子供産むから」と、性懲りもなく宣言したリムリムに、「こ、この、泥棒猫!」と、ニーシャが食って掛かるという大惨事。
「好きでもない女に付きまとわれるなんて、お兄ちゃんが可哀そう!」とニーシャが火を噴けば、「大丈夫、すぐにアタシの身体に溺れるわよ」と、リムリムが油を撒き散らして大炎上。
女二人が角を突き合わせて睨みあうと、義母は早々にご近所さんのところへと避難を始め、シアは「ああ、ご主人さまが愛されています」と、なぜかうっとりとした表情を浮かべた。
「……なんだこれ」
イルが正座させられたまま、何度もそう繰り返しているうちに、朝が訪れる。結局、夜通し続いた彼女たちの言い争いは、イルが仕事を口実に長屋を脱出した時点では、全く収束する気配は無かった。
リムリムの言わんとしている事は、イルにだって理解できる。暗殺者は皆、呪いに抗う術を探している。失ったものに、必死で手を伸ばしているのだ。
だが、理解出来たとしても、それを許容できるかというと話は別だ。実のところ、イルに宿った呪いの範囲は判然としない。だが、子供が出来れば、おそらくその命を自分が奪うことになるだろう。それに耐えられるかというと、正直自信はない。
イルに襲い掛かってきた父親たちは皆、酷い顔をしていた。自分もあんな顔をすることになるのだと思うと、その寒々しさに身が震える。
ともかく、今夜仕事から帰る頃には、リムリムは家に帰っていて、ニーシャの機嫌が直っていれば良いなとは思うけれど、それは余りにも都合が良すぎるだろう。
家を出る間際、「後は私にお任せください。ご主人さまにとって一番良い形に収めてみせます」と、自信満々に見送ってくれたシアに期待するしかない。
既に述べた通り、シアは、数日前からイルの家に住み着いている。
奴隷の身分では他に行き場がないということで、ニーシャも渋々首を縦に振ったのだが、別段イルを誘惑しようという素振りもなく、それどころか、イルとニーシャをくっつけようとするような行動もあって、ニーシャは彼女のことを『シアちゃん』と呼んで、あっさりと懐いた。
ニーシャだけではない。母親に至っては、家事一切の面倒を見てくれるシアに大満足。しまいには、イルに向かって「この娘のかわりに、アンタが出ていけば?」などと、言い放つ始末である。
世の中、どっかが間違えている。
イルは小さくため息を吐いた。
悩みは尽きないが、他にも考えなきゃならないことがある。
請け負ってしまった仕事のことだ。
姫殿下に襲い掛かってくる奴を始末する……なんだ、この曖昧な依頼は。つまり、標的については手掛かり無し。全くのノーヒントだ。
姫殿下に四六時中張り付いて、襲い掛かってくる奴を迎え撃つしかない訳だけれど、警備と何が違うのかと問われれば、
いずれにせよ、姫殿下に近づかなきゃ話が始まらない。さてどうしたものか……。
そんなことを考えているうちに、気が付けば詰所に辿り着いていた。
この時間なら多分一番乗り。鍵を持って良いのは、団長と副団長ということになっているから、姫殿下が来るのを外で待たなきゃならない。そう思ったのだが、入口の把手に手をかけてみれば、あっさりと扉が開く。鍵が開いている。どうやらすでに姫殿下は来ているらしい。
「こんな早くから、ご苦労なこった……」と、扉を開けてみれば、真正面にグレナダの姿。彼女は腕組みをして、こちらを見下ろしていた。
「ほう……貴様が一番か」
こんなに早く更生されては、つまらん。そうとでも言いたげな顔だった。
◇ ◇ ◇
「貴様! ペースが落ちているぞ! それでも軍人かっ!」
グレナダが、大声を張り上げる。
普通、二時間も早く出勤すれば、多少なりとも褒められるものだと思うのだが、どういう訳かイルは出勤直後から特別訓練と称して割り増しで走らされていた。
やっぱり、世の中何かが間違えている。
全員が出勤してくる頃には、イルは息も絶え絶え。だからと言って、このサド女が手加減してくれる訳もなく、定時になったら本日の訓練開始。昨日同様、ひたすら走り込み。先ほどまでに走った分は、もちろん考慮されない。
「戦場では足の止まった者から死んでいくのだ! 走れ! 死にたくなければ走れ! このごく潰しどもがっ!」
グレナダは剣の鞘で地面を打ち鳴らしながら、衛兵たちを声で追い立てる。
ちなみにターリエンは病欠。これには流石のイルも心が痛んだ。
……ウソである。
自分でも意外だったのだが、他人の惚れた女を奪い取ったという、暗い優越感が胸の奥から湧き上がってくるのを感じたのだ。リムリムを受け入れるつもりなど無いというのに。全く、業が深いとしか言いようがない。
季節は夏、陽が昇るに連れて気温はぐんぐんと上昇し始め、刻一刻と過酷さを増していく。正直これでは身が持たない。身動き出来なくなってしまう前に、どうにかして姫殿下と言葉の一つも交わさなければ状況は変わらない。
「しゃあねぇ……姫殿下が
そして、太陽が中天へと昇り詰める頃、イルはついに行動を開始した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます