第39話 都合のいい女志願

 呆気にとられたような静寂。


 そこに一呼吸の間を置いて、一杯呑み屋の店内がざわめきに満ちる。その多くは好奇の思いと、さして美男子と言う訳でもないのに、美女に言い寄られる男へのやっかみ。怨嗟の声。いわゆる「なんであんなのが!」というヤツである。


「ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと待て! 全く話が見えねぇぞ!」


 しがみついたままのリムリムを引き剥がそうともがきながら、イルは声を上擦らせる。だが、引き剥がそうにもイルは非力で、彼女の方は、ちっとも離れようとはしない。赤みがかった鼻先、頬を上気させながら、えへへとはにかむばかりである。


「いやさぁ……、これでも結構悩んだんだってば。ほら、アンタってばクズだし、目ェ死んでるし。ダメ人間だし、これっぽっちも好みじゃないからさ。妥協すんのもどうかなぁとも思ったんだけど、でも他に方法なんてないしね。で、シアに相談したら、「アンタが幸せになれるならなんでもいい」って言うじゃない? そういうことなら遠慮なくって……まあそういうことよ」


「小指の先ほどもわかんねぇ!?」


「細かいことは、いいじゃないの」


「よくねぇよ!?」


 二人のそんなやり取りをよそに、周囲の男たちの怨嗟の声は大きくなる一方。なんだかんだ言っても、リムリムはこの酒場では人気の踊り子、男どもの憧れの舞姫なのだ。


 涙を流して酒をあおる者、「ばかやろー!」と青臭い叫び声をあげて外へと飛び出していく者、鬱憤を晴らすように酔客同士が殴り合いをはじめ、ターリエンはもう完全に干からびている。


 そんな喧噪をよそに、リムリムが声のトーンを抑えて、イルの耳元へひそひそと囁きかけた。


「アタシと愛を交わせばみんな死ぬ。でもアンタは死なない。アンタしかいないの」


「バカだろ、おめぇ。俺の呪いのことは盗み聞きしてたんだろ? 死にてぇのかよ」


「分かってるわよ。だから、結婚してほしいとか、恋人になってほしいって訳じゃないの。子供が出来たら、ハイさよなら。アンタの手の届かないどこか遠くの街に移って、一人で育てるからさ」


「そ、そんなんで、おめぇ、本当にいいのかよ……」


「いいわよ。このままじゃアタシを呪ったの望んだ通りだもの。だから私は家族を手に入れて復讐してやるの。アンタの思い通りになんてならないんだって、そう言ってやるのさ」


 それを耳にした途端、イルの双眸そうぼうに激しい怒りが燃え上がった。


「テメェ! 子供に、背負わせる気かよ!」


 あまりの剣幕に、リムリムは一瞬怯えたような顔になる。だがすぐに睨み返すと、まるで野犬が食いつくかのごとくに、イルの鼻先へと顔を突きつけて大声を張り上げた。


「うるさい! うるさい! うるさいんだよ! アンタ! 抱きたいときに抱ける、都合のいい女になってあげるって言ってんだから! 大人しくアタシを抱きなさいよ!」


 その瞬間、誰かが取り落としたジョッキの底が、テーブルを叩く音だけを残して、さして広くもない呑み屋のフロアに唐突な静寂が訪れる。音が寸断された。そんな風景。周囲の客(干からびたままのチョビ髭親父は除く)の視線が、リムリムの方へと集まっていた。


 リムリムは、今自分の口から出た言葉を思い起こす。


 ――大人しくアタシを抱きなさいよ!


 あ……痴女だわ、これ。


 そう自覚した途端、ただでさえ上気していたリムリムの顔。それが一気に首筋まで朱に染まる。途端に、しがみついていたイルの身体を投げ出すと、彼女は顔を覆って、その場にうずくまった。


「人前で接吻キスするのは平気なクセに、こんなんで恥ずかしがんのかよ……」


「うっさい、死ね!」


 リムリムは顔を覆ったまま、そう吐き捨てる。だってコレは無い。コレは酷い。誘惑する女は格好良いが、懇願する女は格好悪いのだ。彼女の基準では。

 

 首筋まで真っ赤になってうずくまる女を見下ろして、イルは呆れたとばかりに肩を竦める。そして、次の瞬間、いかにもクズらしい意地の悪い微笑みを口元に張り付けた。ここまで散々主導権を握られてきたのだ。少しぐらいはやり返してやらないと気が済まない。そう思ったのだ。


「で、なんだって? 都合の良い女になりたいだっけか? まったく……どんな教育を受ければ、こんなエロい女が出来上がるのかね。恥ずかしいったらありゃしねぇな」


「はぅぅっ……」


「ほら、何とか言ってみろよ、おい」


 ただうめくだけになってしまったリムリムに、イルは顎を突き出してさらに迫る。弱った者には更に強く。完全にチンピラのソレ。実にクズらしいやり方である。


 だが、次の瞬間――


「お゛に゛ぃぃぃち゛ゃぁん……」


 あからさまな怒気を孕んだ低い声が背後から響いて、イルは思わず「ふひっ!?」っと変な声を漏らして身を固くする。その声が、誰のものかが分からない筈がない。


 イルが油の切れた歯車のように、ぎこちなく背後を振り向くと、そこには腕組みをして、イルとリムリムの二人を睥睨へいげいする妹、ニーシャの姿があった。


「な、なんでこんなとこに……」


「シアちゃんがね。こっちの方からお兄ちゃんの気配がするっていうから」


 気配とか! どこの剣豪だよ!


 イルは思わず、ニーシャの背後にいるシアの方へと驚愕の目を向ける。


「それにしても……女の子いぢめて楽しいの? クズお兄ちゃん」


「ニ、ニーシャ、あの、その、これは……ちょっと訳アリで」


「問答無用だよ! 生ゴミお兄ちゃん! 言い訳は家に帰ってから、たっぷりと聞かせてもらいますからね! それとそこの泥棒猫さん!」


「泥棒猫!?」


「黙らっしゃい!!」


 思わず顔を上げたリムリムを、ニーシャは恐ろしいほどの迫力で一喝すると、その鼻先に指を突きつけた。


「あなたにも一緒に来てもらいますから!」


 思わず仰け反るリムリムは、シアの方へと救いを求めるような目を向ける。だが、シアはニコリと微笑むばかり。リムリムはそのまます術もなく項垂うなだれた。


「ところで、粗大ゴミお兄ちゃん!」


「ハ、ハイッ!」


「『そもそも妹なんて、口うるさいばっかりでうっとおしいったらありゃしないんですから!』っていう発言については、その女の人のこととは別に、じっくり、たっぷり、ねっちょりと弁明を聞かせてもらいますから! そのつもりで!」


「ひぃいいいい!?」


 それはイル、完全終了のお知らせであった。恐らく、夕食抜き一週間の実刑判決である。


 連行されていくイルとリムリムを見送って、酒場には何とも言い難い空気が居座った。酔客たちは、一体、あれは何だったんだろうと、そう思いながらも、今起こった出来事をテーブル上の話題から遠ざける。触らぬ神に祟りなしなのだ。


 そして、呑み屋の店主は、床の上で干からびて座り込んだままのチョビ髭親父の肩を叩いて、「今日は俺のおごりでいいから」と、哀れむようにそう言った。

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