第38話 女は「子供をつくろう」と言った。たぶん聞き間違いではない。

「私は人生に復讐したい」


「うん」


「ママを呪った女に……ソイツに押し付けられたこの人生に、復讐してやりたい」


 振り切れて、揺るぎない。後がない。リムリムは自分のその物言いに、片側にだけおもりを積み上げた天秤を思い浮かべる。


 何を必死になってるんだろう……とは思う。だが、想いが溢れるのを止められなかった。


 あの日、ボードワンの死体をその場に残して、シアとリムリムは屋敷を出た。夕闇に長く伸びた二人の影。リムリムの住処すみかである倉庫の屋根裏部屋へと向かいながら、彼女はずっと考えていた。そして部屋へと続く外付けの階段、その途中。残照が静かに消え失せる頃。彼女はシアを振り返って想いの丈を打ち明けたのだ。


 生まれつき宿した呪いのこと。このまま誰とも愛を交わせぬままに、死んでいくのだとそう思っていたことを。あのクズ男となら愛を交わして家族を作れるかも。そう思った時にどれだけ動揺したのかも。


 言葉が尽きてうつむくリムリムに、ポツリと一言。


「無理だよ。家族にはなれない。死んじゃうんだもの」


 リムリムは思わず顔を上げた。そして見た。口元だけを歪めて薄っすらと笑みを浮かべるシアの姿を。


「でも、いいんじゃないかな。ご主人さまが幸せになれるなら、何でも」


 その時、リムリムは理解した。ああ、この娘はもう壊れているのだ。アタシのことなど、本当にどうでも良いのだと。


 そしてリムリムは静かに目を瞑る。


 ――ならば、もう何も遠慮する必要はない。



 ◇ ◇ ◇



「ああっ!?」


 ターリエンが驚愕の声を上げるのとほぼ同時に、店の中にあしが風に揺れるような、ザワッという声が一斉に響き渡った。


 それもそのはず、リムリムがいきなりイルの首筋に手を回し、その唇に、自らの唇を押し当てたのだ。


 思わず目を見開くイル。だがその驚愕を尻目に、リムリムの舌がイルの唇を強引に押し広げて、口内へと侵入してきた。


 口蓋を嘗め回し、執拗にイルの舌へと絡みついてくるリムリムの熱い舌。ぬるりとした感触。ざらりとした感触。熱い吐息と淫らな水音が、耳小骨を伝って、耳の奥へと生々しく響いてくる。


 あまりにも唐突な女の行動に酔客たちはざわめき、ターリエンは呆然自失の面持ちで、その場に膝から崩れ落ちた。


(なんだ……これ、一体、ど、どうなってんだ?)


 応える者もいないその思いは、イルの頭の中を無益にループする。もはや、まともな思考は働かない。だが、快感の波に押し流されそうになったその瞬間――


 ――ぼーっと熱を持ったイルの頭の中で、唐突に何かがぜた。


 神経の端からチリチリと焼け焦げていくような、そんな感触が背筋を走って、イルは大きく目を見開く。そして、力任せにリムリムを押しのけると、椅子を蹴って立ち上がった。


「てめぇ……!」


 イルが感じたその感触は、その身に宿った『呪い』が発動する感触。因果の書き換えを行う超常の力。彼の身に宿った呪い、『最悪イルネス』が発動する、その感触だった。


最悪イルネス』には、二つの発動形態がある。


 能動的アクティブ受動的パッシブ


 受動的パッシブは、何者かによって生命を脅かすほどの危害を加えられた際に、その相手と自分の立場を自動的に入れ換える。それが発動したということは、つまりリムリムが今、イルを殺そうとしたということに他ならない。


「……なんのつもりだよ。クソビッチ!」


 手の甲で濡れた唇を拭いながら、イルはその視線に殺意を籠める。だが、リムリムは何も答えない。ただ、じっとイルの方を観察している。


 周りの客たちは、何が起こったのかわからないまま、ただならぬ様子の二人を、息を呑んで眺めていた。


 吐いた息が瞬時に凍り付いてしまいそうなほどの、冷たい殺気がその場に充満して、重苦しい静寂が一杯呑み屋の広くもない店内に居座る。


 誰の物ともつかない息遣いだけが響く、長い、長い沈黙。その長い沈黙を破ったのは、リムリムだった。


「アンタ……平気、なの?」


「ああ、残念だったな、クソ女! 何を企んでやがるのか知らねぇが、俺はてめぇの思い通りにゃならねぇぞ」


 イルの挑発めいたその言葉に、どんな返事が返ってくるのかと思えば――。


「お腹が痛かったり、吐き気がしたりは? 手足が震えたりはしてない?」


 返ってきたのは、まるで医者の問診のような問いかけ。思わず毒気を抜かれたイルが「は? ね、ねぇよ、あるかよ! そんなもん!」と声を上擦らせたその瞬間、リムリムが動いた。


 ダンスで鍛え上げられたしなやかな肉体が、女豹のように跳ねて、イルの方へと飛び掛かってくる。


 だが、イルは動かない。動く必要がない。どんな攻撃を仕掛けてこようとも、彼の身に宿った呪いが、『最悪イルネス』が、全てをはじき返す。それは絶対の自信。


 だが――


「あはははっ! やっぱりそうだ! そうなんだ!」


 と、リムリムは、イルの頭をその豊かな胸に抱きかかえると、満面の笑みを浮かべてはしゃぎ始めた。


 頬に押し付けられるむにゅんで、ぷにょんな感触に蕩けかかる思考。『最悪イルネス』をもってしても流石にそれは弾き返せない。


「ちょっ、ぷはっ! な、なんなんだよ! おめぇは! 一体何考えてやがる!」


 もがきながら、イルがそう声を上げると、リムリムはこれまで見せたことの無いような満面の笑みを浮かべて、こう答えた。


「ねぇ、アンタ。アタシと!」


 途端に、先ほどの凍てついた沈黙とは、全く異なる静寂がその場に舞い降りる。言葉にするなら、それは驚愕もしくは困惑。


 そして――


「…………はぁあああああああああっ!!!」


 イルの狼狽に満ち満ちた声が、一杯呑み屋の狭い店内に響き渡った。

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