第36話 恋のキューピッド。その眼は腐ってる。
「恵まれない子供たちに、お恵みを!」
「貧民街が近いと、ああいうのが多くて……なんというか、イヤでスね」
「ええ……まあ」
隣で眉を
「ちっ……気づきやがったか」
実は、この
「きっと、天国にいけますよ」
イルはほとんど酒が飲めない。その上、ただでさえ疲労困憊。本来なら真っ直ぐに家路につくところだが、どういう訳か、今日に限ってはガクガクと足を震わせながらも、歓楽街の方へ向かっている。
何かのっぴきならない用事でもあるのかと思えば、なんのことはない。
「それにしても、今日は……ひでぇ目にあいましたね」
「ええ、まったくでス。まあ、あれだけ嫌がらせみたいに走らされたのは、誰かさんが遅刻してきたせいなんでショうけれど……」
「まったく、とんでもねぇ野郎だ。ぶっ飛ばしてやる」
「……後で鏡でも殴っておいてくだサイな」
あの後、サド気質満点の女騎士さまは、訓練と称して日が暮れるまで衛士たちをひたすら走らせたのだ。狭い訓練場の中をひたすらグルグルと、それこそ最後は溶けてバターにでもなってしまいそうなほどに。
実際、グレナダが「やめてよし!」と声を掛ける頃には、衛士たちは足腰立たなくなっていて、軟体動物みたいにぐでっと地面に転がった訳だから、その
しばらくして二人は路地裏の一杯呑み屋に入り、端っこのテーブルに腰を下ろす。歩み寄ってきた給仕の女の子にエールとつまみを注文して、ターリエンは盛大にため息を吐いた。
「それにしても、なんでこんなことになってしまったんでスかねぇ……。まだ、団長を殺した犯人の手掛かりだって掴めてないというのに……。アナタ、本当に犯人を見てないんでスか?」
「それも、散々聞かれましたけどね。俺ゃあ、後ろからぶん殴られて気ぃ失っちまったもんで、おやっさんを殺ったのが、男か女かすらわかりゃしません」
「……ほんっとに役立たずなんでスから、アナタは」
「それにしても、姫殿下直々に衛士詰所の団長に就任って、国王陛下も一体、何考えてんでしょうね……戦争も近いってのに」
「陛下のお考えなんてわかりまセンけれど、あの雌獅子みたいな女のシゴキが、毎日続くのかと思うと、呑まなきゃやってられまセンよ」
「ああ、それで……呑み屋っすか」
わざわざこんなところに連れてきたのは、ただ愚痴りたいだけなのかと、イルがそう納得しかけたところで、気色の悪いことにターリエンが頬を赤らめてモジモジし始めた。
「それもあるのでスが……。実はワタシ、恋をしてるのでス」
「あの……俺、そういう趣味は……」
「ワタシにだって、そんな趣味はありまセンよ!」
「……はぁ、じゃあ一体誰にです?」
「て……天使でス」
「へー、天使っすか」
その瞬間、まともに話を聞く気はなくなった。
三十半ばのチョビ髭親父が天使とか。
適当に聞き流して切り上げようと思ったのだが、暑苦しいことに、ターリエンはイルに真剣な表情を向けてくる。ホント、やめて欲しい。給仕の女の子が運んできたエールを受け取りながら、チョビ髭親父は思いつめたような声音でこう切り出した。
「そこで、アナタに頼みたいことがあるのでス」
「頼み?」
うん、もう、イヤな予感しかしない。
「その天使の前で、ワタシのことを褒めたたえて欲しいのでスよ。このターリエンがいかに良い男かを、第三者の口から彼女に伝えてあげて欲しいのでス」
(く、くだらねぇ……おめぇに褒めるところなんてねーよ)
胸の内でそう毒づきながら、イルは呑めもしない酒をちろりと
「うまくやってくれたら、勤務評価をぐんと上げてあげまスよ?」
「……え? で、出来るんすか? そんなこと」
思わず真顔になるイルに、ターリエンは真剣な顔で頷く。チョビ髭が鼻息でそよそよと揺れた。
「グレナダさまはそのあたりには全く興味がないご様子。勤務評価は、ワタシに一任されているのでス。それだけじゃありまセン。上手く行ったら、団費から多少の経費を出しても良いのでスよ?」
「な、なるほど」
このチョビ髭親父の言っていることは、どう考えても横領なのだが、その誘惑は断ち切りがたい。
実は、ボードワンの件で数日休んだ分を給金から棒引きされたせいで、ニーシャに「今月の小遣いは半分だからね!」と言い渡されているのだ。
「水臭いですよ、副団長! この俺にドンとまかせてください! で、その天使ってのは、どこの誰なんです?」
「あの娘でス」
ターリエンが熱っぽい眼差しを向けた先、そちらへと顔を向けた途端、イルの頬が盛大に引き攣った。
一杯呑み屋の一番奥、一段高くなった粗末なステージの上で、流しの親父のリュートの音色に合わせて踊る女が一人。褐色の肌に光る汗、むき出しのお腹は引き締まって、揺れる胸、腰の動きもなまめかしい。
情熱的に舞う肉感的な踊り子の姿に、ターリエンは感嘆のため息を漏らし、イルは(……まじかよ)と、ニュアンスの全く違うため息を吐いた。
もはや言うまでもないことだが、そこにいたのはリムリムである。
流しがリュートを盛大にかき鳴らすと、リムリムが決めのポーズをとって音楽が途切れる。呼吸に上下する胸。客たちがパラパラと拍手し始めると、「ブラボー!」と、ターリエンが立ち上がって、ひと際大きく手を叩いた。
店内を見回していたリムリムの視線が、大きな音を立てて拍手をするターリエンの方に向かう…………かと思いきや、手前のイルのところで止まる。
慌てて目を逸らすイル。だが、リムリムはステージを降りると、つかつかと彼の方へと歩み寄ってきた。
自分の方に来てくれたのだと歓喜の表情を浮かべ、チョビ髭を整えるターリエン。だが、リムリムはそんなチョビ髭親父の前を素通りして、イルの顔を覗き込むと、にんまりと笑顔を浮かべた。
「あらあらぁ、なぁーに? 珍しいのがいるじゃないのぉ。どうしたのかなぁ? ぼくちゃん、おねえさんに甘えたくなっちゃったのかなぁ? 会いたくなっちゃったのかなぁ?」
軽くからかってやろうというつもりなのだろうが、状況を思えば全く笑えない。恋するチョビ髭親父の手前、それはどう考えても最悪の第一声であった。
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