第36話 恋のキューピッド。その眼は腐ってる。

「恵まれない子供たちに、お恵みを!」


 修道女シスターが大声を張り上げていた。歓楽街の入口の脇。鼻の頭に刻み込まれた刀傷が印象的な修道女シスターである。その周りで、見すぼらしい恰好の幼い子供たちが藤籠を手に、じっとイルたちの方を見つめている。


「貧民街が近いと、ああいうのが多くて……なんというか、イヤでスね」


「ええ……まあ」


 隣で眉をひそめるチョビ髭親父に適当な相槌を打ちながら、そのまま通り過ぎようとすると、修道女シスターが「まさか、見て見ぬフリをするつもりですか?」と、イルに向かって声を張り上げた。


「ちっ……気づきやがったか」


 実は、この修道女シスターは顔見知りなのだ。イルは、やれやれと首を竦めながらズボンのポケットをまさぐって小銭を取り出すと、近くにいた女の子の藤籠に放りこんだ。


「きっと、天国にいけますよ」


 頭巾ウィンプルも被っていない赤毛の修道女シスターが、ニッと笑うと、イルは「うるせぇ」と吐き捨てて、そのまま盛り場の方へときびすを返す。


 イルはほとんど酒が飲めない。その上、ただでさえ疲労困憊。本来なら真っ直ぐに家路につくところだが、どういう訳か、今日に限ってはガクガクと足を震わせながらも、歓楽街の方へ向かっている。


 何かのっぴきならない用事でもあるのかと思えば、なんのことはない。副団長の陰険チョビ髭親父――ターリエンにとっ捕まって、無理やり引っ張って来られたのだ。


「それにしても、今日は……ひでぇ目にあいましたね」


「ええ、まったくでス。まあ、あれだけ嫌がらせみたいに走らされたのは、誰かさんが遅刻してきたせいなんでショうけれど……」


「まったく、とんでもねぇ野郎だ。ぶっ飛ばしてやる」


「……後で鏡でも殴っておいてくだサイな」


 あの後、サド気質満点の女騎士さまは、訓練と称して日が暮れるまで衛士たちをひたすら走らせたのだ。狭い訓練場の中をひたすらグルグルと、それこそ最後は溶けてバターにでもなってしまいそうなほどに。


 実際、グレナダが「やめてよし!」と声を掛ける頃には、衛士たちは足腰立たなくなっていて、軟体動物みたいにぐでっと地面に転がった訳だから、そのたとえもあながち間違いではない。


 しばらくして二人は路地裏の一杯呑み屋に入り、端っこのテーブルに腰を下ろす。歩み寄ってきた給仕の女の子にエールとつまみを注文して、ターリエンは盛大にため息を吐いた。


「それにしても、なんでこんなことになってしまったんでスかねぇ……。まだ、団長を殺した犯人の手掛かりだって掴めてないというのに……。アナタ、本当に犯人を見てないんでスか?」


「それも、散々聞かれましたけどね。俺ゃあ、後ろからぶん殴られて気ぃ失っちまったもんで、おやっさんを殺ったのが、男か女かすらわかりゃしません」


「……ほんっとに役立たずなんでスから、アナタは」


「それにしても、姫殿下直々に衛士詰所の団長に就任って、国王陛下も一体、何考えてんでしょうね……戦争も近いってのに」


「陛下のお考えなんてわかりまセンけれど、あの雌獅子みたいな女のシゴキが、毎日続くのかと思うと、呑まなきゃやってられまセンよ」


「ああ、それで……呑み屋っすか」


 わざわざこんなところに連れてきたのは、ただ愚痴りたいだけなのかと、イルがそう納得しかけたところで、気色の悪いことにターリエンが頬を赤らめてモジモジし始めた。


「それもあるのでスが……。実はワタシ、恋をしてるのでス」


「あの……俺、そういう趣味は……」


「ワタシにだって、そんな趣味はありまセンよ!」


「……はぁ、じゃあ一体誰にです?」


「て……天使でス」


「へー、天使っすか」


 その瞬間、まともに話を聞く気はなくなった。


 三十半ばのチョビ髭親父が天使とか。


 適当に聞き流して切り上げようと思ったのだが、暑苦しいことに、ターリエンはイルに真剣な表情を向けてくる。ホント、やめて欲しい。給仕の女の子が運んできたエールを受け取りながら、チョビ髭親父は思いつめたような声音でこう切り出した。


「そこで、アナタに頼みたいことがあるのでス」


「頼み?」


 うん、もう、イヤな予感しかしない。


「その天使の前で、ワタシのことを褒めたたえて欲しいのでスよ。このターリエンがいかに良い男かを、第三者の口から彼女に伝えてあげて欲しいのでス」


(く、くだらねぇ……おめぇに褒めるところなんてねーよ)


 胸の内でそう毒づきながら、イルは呑めもしない酒をちろりとめる。だが、いかにも気乗りしない素振りを見せるイルに顔を突きつけて、ターリエンはニヤリと笑った。


「うまくやってくれたら、勤務評価をぐんと上げてあげまスよ?」


「……え? で、出来るんすか? そんなこと」


 思わず真顔になるイルに、ターリエンは真剣な顔で頷く。チョビ髭が鼻息でそよそよと揺れた。


「グレナダさまはそのあたりには全く興味がないご様子。勤務評価は、ワタシに一任されているのでス。それだけじゃありまセン。上手く行ったら、団費から多少の経費を出しても良いのでスよ?」


「な、なるほど」


 このチョビ髭親父の言っていることは、どう考えても横領なのだが、その誘惑は断ち切りがたい。


 実は、ボードワンの件で数日休んだ分を給金から棒引きされたせいで、ニーシャに「今月の小遣いは半分だからね!」と言い渡されているのだ。


「水臭いですよ、副団長! この俺にドンとまかせてください! で、その天使ってのは、どこの誰なんです?」


「あの娘でス」


 ターリエンが熱っぽい眼差しを向けた先、そちらへと顔を向けた途端、イルの頬が盛大に引き攣った。


 一杯呑み屋の一番奥、一段高くなった粗末なステージの上で、流しの親父のリュートの音色に合わせて踊る女が一人。褐色の肌に光る汗、むき出しのお腹は引き締まって、揺れる胸、腰の動きもなまめかしい。


 情熱的に舞う肉感的な踊り子の姿に、ターリエンは感嘆のため息を漏らし、イルは(……まじかよ)と、ニュアンスの全く違うため息を吐いた。


 もはや言うまでもないことだが、そこにいたのはリムリムである。


 流しがリュートを盛大にかき鳴らすと、リムリムが決めのポーズをとって音楽が途切れる。呼吸に上下する胸。客たちがパラパラと拍手し始めると、「ブラボー!」と、ターリエンが立ち上がって、ひと際大きく手を叩いた。


 店内を見回していたリムリムの視線が、大きな音を立てて拍手をするターリエンの方に向かう…………かと思いきや、手前のイルのところで止まる。


 慌てて目を逸らすイル。だが、リムリムはステージを降りると、つかつかと彼の方へと歩み寄ってきた。


 自分の方に来てくれたのだと歓喜の表情を浮かべ、チョビ髭を整えるターリエン。だが、リムリムはそんなチョビ髭親父の前を素通りして、イルの顔を覗き込むと、にんまりと笑顔を浮かべた。


「あらあらぁ、なぁーに? 珍しいのがいるじゃないのぉ。どうしたのかなぁ? ぼくちゃん、おねえさんに甘えたくなっちゃったのかなぁ? 会いたくなっちゃったのかなぁ?」


 軽くからかってやろうというつもりなのだろうが、状況を思えば全く笑えない。恋するチョビ髭親父の手前、それはどう考えても最悪の第一声であった。

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