第33話 春は終わっていた。(第一章最終話)
イルはボードワンを殺したあの日以来、衛士詰所には顔を出していない。その上、ボードワンの妻子を見送ってから、更に三日の間、寝て暮らした。
もちろん、感傷などではない。実はボードワンの妻子を見送った後のその三日間は、ショックを受けているのだろうと、周りが気遣ってくれるのを良い事に、実にだらだらと寝て過ごしていただけなのだ。
なんだかんだ言っても、本質的にこの少年はクズなのである。
もちろんシアについても、自分からどうこうするつもりは毛頭ない。わざわざリムリムのところへ出向いて、厄介事に巻き込まれるなんて愚の骨頂。実際、そう思っていた。
「あとは、あのエロ女に全部おまかせ」と、とうの昔に他人事なのだ。
平日の午後、二部屋しかない衛士長屋でのこと、隣の部屋からはニーシャと義母の話し声が聞こえてくる。それを聞くともなしに聞きながら、イルはベッドに横たわったまま天井を見上げた。
いつか……ニーシャとも母さんとも殺しあうことになるのだろうか。
割り切っているつもりだが、その日が来るのは、なるべく遅い方がいいなとは思う。
そんな感傷的な思いに身をまかせていると、ふいに玄関の方から扉を叩く音が聞こえた。
「はぁーい」
戸口でニーシャと誰かが話す声がして、しばらくするとバタバタと慌しい足音とともに、イルの部屋の扉が乱暴に開かれた。
そして――
「ん? どうし……うげぇ!?」
何の気なしにイルが身を起こそうとした途端、ニーシャが彼のどてっぱら目掛けて、とび蹴りを食らわせた。それはもう、見事にな浴びせ蹴りである。
「お、お、お、お、お兄ちゃん! 何てことしてくれんのよ!」
「ううっ……なんてことって、な、何がだよ?」
腹を押さえて、もだえ苦しみながらイルが問い返す。
「お、お、女の子を
「お、おちつけってば、ニーシャ、一体、なにが……」
涙目で詰め寄ってくるニーシャ。イルは目を白黒させながら後ずさり、部屋の入口の方へと目を向ける。するとそこには、かわいらしい白いブラウスと、紺のハイウエストのスカートをあわせた、色白な少女が静かに微笑んでいるのが見えた。
「て、てめえ、シア! な、な、なんでここに!」
シアは抗議の声を上げるイルの様子を気にも留めず、少し照れたような微笑みを浮かべた。
「ご主人さまが、ちっとも迎えに来てくださらないから……来ちゃいました」
「き、来ちゃいましたって! てめぇ!」
「どうすんのよ! お兄ちゃん!」
さらに詰め寄ってくるニーシャを押しのけて、シアの方へ駆け寄ると、イルは彼女の鼻先に指を突きつけて声を荒げる。
「ど、ど、ど、どういうつもりだよ!」
「どう?」
シアは一瞬きょとんとした表情を浮かべた後、「ああ」と一人納得したように頷いたかと思うと、彼の耳元へ、そっと唇を寄せた。
「ご主人さま、よーく考えてみてください。この隷属の首輪がついている限り、私はご主人さまに危害を加えることができないんです。つまり、ご主人さまが、みんなを殺してひとりぼっちになっても、私だけは傍にいられるんですよ」
イルは思わず目を剥く。そして思わず化物を見るような目をシアに向けた。
だが、シアに動じる様子はない。それをただ、満面の笑みを浮かべて受け止めた。
「というわけで……末永く可愛がってやってくださいませ。ご主人さま」
シアの背後、扉の向こう。
いつのまにか春は終わり、初夏の陽気の中で明るい緑の葉が、我関せずと、ただ風に揺れていた。
第一章 暗緑鋼始末――了
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます