第32話 光る雫
イルの姿が見えなくなると、シアはリムリムの方へと静かに向き直った。
「ねぇ、リム姉さん」
「は、はい? な、な、なーに?」
思わず背筋を伸ばすリムリムに、シアは微笑みを浮かべる。ペータの死に表情を失っていた、つい先ほどまでの幽鬼のような雰囲気はどこかへ消えてしまった。
だが、それが怖い。
何かとんでもない化け物にでも変わってしまったかのような、そんな得体のしれない迫力が今のシアには宿っていた。雄を喰いつくした後の雌カマキリのような、そんな迫力が。
無論、B級とはいえ、リムリムだって『
だが、そういう問題ではない。
今のシアには、逆らえば、魂まで食い散らかされてしまいそうな、そんな不気味な恐ろしさがあった。
思わず頬を引き攣らせるリムリムに、シアは静かに顔を近づける。鼻先が触れ合いそうになるほどの距離まで顔を近づけて、シアは静かに囁く。
「お金のこと黙っててくれて、ありがとう」
「う、うん」
「あの子を幸せにしてあげるためには、ちょっとぐらいはお金はあった方がいいし……ね」
……
「ねぇ、シア、あんたこれからどうする気なの?」
「どうって?」
「お金もあるんだし、やっぱり自分を買い戻した方がいいんじゃないの? あの男が気になるってんなら、別に奴隷じゃなくても良いと思うんだけど」
「うふふ……リム姉さんったら、やっぱり何も分かってないんだ」
「な、なにが?」
「私は、ただ、あの子を……ご主人さまを、幸せにしてあげたいだけなの。だから、リム姉さんがご主人さまのことを好きになってくれるなら、それも大歓迎」
「ば、ばか! そ、そんなことある訳ないじゃないの!」
「うふふ、隠さなくても良いのに。そうじゃなきゃおかしいし。きっとそうなると思うな。まあ、それでも……最後まであの子の側にいられるのは、私だけなんだけど……ね」
ゾゾゾと背筋の凍り付くような感触を覚えながら、「あはは」と引き攣った笑いを浮かべるリムリム。今すぐ逃げ出してしまいたいのが本音だが、少なくとも、今夜はシアを預かることになっている。
……今夜は、ちょっと眠れそうにないわね、これ。
リムリムは、先に逃亡したクズ男を、心の底から絞め殺してやりたい……と、そう思った。
◇ ◇ ◇
あれから三日が経った。
イルとニーシャは、衛士長屋を出て行くボードワンの妻子を見送るために長屋の前の通りへと出ていた。
「……すまねぇな」
その言葉に嘘はない。詫びることしかできない。
イルは、泣きはらした顔のボードワンの娘、その頭をそっと撫でる。
娘は返事を返さない。ただしゃくり上げているだけだ。
「アンタが悪い訳じゃないさ、大丈夫。あの人だって衛士の端くれだもの……。こういう日がくるかもしれないって、ずっと前から覚悟はしてたから」
気を使ってくれたのだろう。ボードワンの奥方が、そう言って寂しそうに笑った。
唇を噛み締めたまま黙り込んでしまった兄の代わりに、ニーシャが奥方へと問いかける。
「これから……どうするの?」
「そうさねぇ……。もしかしたらこの子のためには良かったのかもね。この街は色々とガラも悪いしさ。とりあえずは田舎のお爺ちゃん、御婆ちゃんのところに身を寄せて、しばらくゆっくりしてから身の振り方を考えようと思ってる。この子のために、どうすれば一番いいのかを……ね」
「……そっか」
「うん、そう」
そして、母子は旅立っていった。
奥方は振り返らずに行ってしまった。手を曳かれた娘が、しきりに母親の方を見上げていたのは、もしかしたら母親の目に光る雫を眺めていたのかもしれない。
「お兄ちゃん、お家に入ろう」
ニーシャがそう促すまで、イルは、じっと通りの向こう側、母子の向かった先を眺めていた。
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