第31話 少女の狂気

「そ、そういえばアンタ、『暗録鋼の製法』を見つけたってのは、ハッタリかい?」


 無感情なシアの視線が、自分に向けられている気づいて、リムリムは慌ただしく話題を変えた。


「ばーか、んな訳ねぇだろが……。そこの外れた扉、そいつを見てみな。一本、傷が入ってるだろ」


 イルが顎をしゃくって指し示したのは、リムリムのすぐそば、戸口の脇に立てかけられている外れた扉。力任せにブチ破られて、蝶番ちょうつがいの部分が割れた木製の扉である。


「傷、傷、ああ、これかい?」


 その扉の随分下の方、膝の高さのあたりに、ナイフで削ったような横向きの傷が入っているのを見つけた。


「こいつが逆さに置かれちまってたもんだから、気が付かなかったんだがよ。おめえさん、シアの親父さんが『暗緑鋼』について、何て言ってたか覚えてるか?」


「ペータが、私より背が高くなった頃に教える……です」


 リムリムが口を開くよりも先に、シアがポツリと呟いた。


「そうだ」


 イルはドアの方へと歩み寄ると、リムリムにそこを退くように促し、扉をひっくり返して、本来それがあった位置に立て掛ける。


「この傷はシアの身長さ。たぶん親父さんが死ぬ少し前に付けられたもの、そうだな、シア?」


 シアはコクリと頷く。


「つまり、この傷より上の石壁を引っぺがすと……」


 ドア横の石作りの壁面、積まれた石の一つがあっさりと外れる。


「あっ!?」


 思わず目を見開くリムリム。それをよそに、イルはその奥から油紙で包まれた紙片を引っ張り出し、指先でつまんで裏表を眺めた後、シアの方へと投げ渡した。


「って訳で……こいつはお前のモンだ」


 それは呆れるほどに単純な話。『暗緑鋼の製法』は、最初からこの作業場にあったのだ。


 几帳面なシアの父親が、書き記していないことなどありえないし、息子の商売がたきになるであろうトルクが、持ち出そうとする可能性を考慮しない訳がない。


 自分の目の届く範囲で、いつかはきっと目を向ける場所。もしかしたら、ペータがシアの背丈を抜いた時に、驚かせようとでも思っていたのかもしれない。


 親子が楽しげに笑いながら、その紙片を手にする風景が頭を過る。だが、そんな未来は、もはやあぶくのように消え去ってしまった。


 シアは感情の無い目で、ぼんやりと手の中のそれを眺めている。だが、


「まあ、鍛冶師でもねぇ、お前にとっちゃあ、もう無用の長物かもしれねぇ。親父の形見だって後生大事にするもよし、売るもよし……」


 イルが床で転がる埃の塊を眺めながら、投げやりな風を装ってそう口にしたのと同時に、ビリッ! と渇いた音が響いた。


 驚いて顔を上げるイル。その目の前で、シアは油紙ごとそれを更に細かく千切って、埃まみれの床の上へとばらまいた。


「って、オイ! てめぇ! 何やってんだよ!?」


「あらあら大変。破けちゃいました」


「破けちゃいましたって……! 今、全力でお前が破ったんだろうが!」


 驚愕の表情を浮かべるイル。そのすぐ隣でリムリムが頭を抱えた。


 イヤな予感がしていたのだ。


「というわけで、ご主人さま。自分を買い戻すお金を手にいれる方法は、もうどこにも無くなっちゃいました」


「ご、ご主人さま!? おめぇを買い取ったのはしかたなく、あ、あくまで一時的にだな……」


 イルは、今まさに蛇に飲み込まれてる真っ最中の蛙みたいな顔で硬直している。


 リムリムは思う。やっぱりこうなったかと。


 買い戻すお金がないというのは嘘だ。イルが知らないだけで、トルクから取り戻した金がある。


 だが、リムリムが、それを口にする訳にはいかない。


 シアはこのクズに、全力で依存するつもりなのだろう。


 もはや正気では無いのかもしれない。


 それだけに、下手に邪魔をすればシアの、その狂気の矛先がリムリムの方へと向くに違いないのだ。命あっての物種というのは、まさにこういうことを言うのだ。ここは、このクズに生贄になってもらうより他に無い。


「あらあら~たーいへん。奴隷の面倒は主が見なきゃねぇ。それとも、もう一回売り飛ばしちゃったりするのかしら? しないわよねー。できないわよねー」


 他人事みたいな白々しい声を上げるリムリムに、イルは恨みがましい目を向ける。


「てめえ、図りやがったな!」


「なんのことかーしーらぁ~」


「ぐぬぬぬぬ……」


 明後日の方向へと目を逸らすリムリム。それを歯噛みしながら睨み付けた後、イルは唐突に、がくりと肩を落とした。


「ダメだ……くらくらしてきた。おりゃあ、とりあえず衛士詰所に出頭するから、今日のところは、シアをお前ん家にでも預かってくれ。今度あらためて話をつけようじゃねぇか」


 静かに微笑むシアにちらりと目をやってから、イルは疲れきった表情でふらふらと工房を後にした。

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