第30話 最悪の少年 その4

 凄まじい痛みと共に、喉の奥から鉄錆びの味がする液体がこみ上げてくる。ボトリボトリと大量の液体が滴り落ちる音が耳の中を木霊した。床の上へと広がっていく黒ずんだ赤。


 な、なんだ! これは!?


 思わず驚愕の声を上げるボードワン。だが、その言葉は声にならず、ヒューヒューという、か弱い呼吸音として宙に消える。


 驚愕、混乱、混濁。


 ボードワンは確かにイルを斬った。間違いなく斬ったのだ。


 イルに動いた様子は無かった。身構えてすらいない。


 だが、致命傷を負ったのはボードワンの方。


 彼は次第に暗くなっていく視界の中に、イルを捉えた。


 寂しそうな顔をしたその少年。そちらへと腕を伸ばし、宙を掻くようにしてボードワンは地に斃れた。


 もしこの場に、イルとボードワンの他に誰かがいたとしても、何が起こったのかは、決して判らなかっただろう。


 イルがやったこと、それは『因果の入れ替え』。


 原因と結果を入れ替える超常の力。主語と目的語の入れ替えと捉えても良い。実際は似て非なるモノだが、結果としては同じことだ。


『ボードワン』が『イル』を斬ったという事象は、『イル』が『ボードワン』を斬ったという結果として結実したのだ。


 それはあまりにも理不尽な、の力であった。


 埃っぽい石畳の上に、驚愕の表情を浮かべたまま横たわるボードワンを見下ろして、イルは小さく溜息を吐いた。


 これで終わり。呆気ないが、これで全部終わりだ。


 あとは怯えたフリをして、「オヤッさんがやられた!」と泣き喚きながら、衛士詰所へ駆けこむだけだ。イルを疑うものなど、誰もいやしない。いる訳がない。背後から斬りつけられたならばいざしらず、イルの腕前で真正面からボードワンとやり合って勝てる可能性など、本来なら微塵もないのだから。


 イルがボードワンの死体から目を逸らしてきびすを返すと、そこに工房の戸口にもたれかかるようにして、リムリムが立っていた。


 その背後には、顔を伏せたシアの姿も見える。


「終わったみたいね」


「……ああ」


「……その、のぞき見するつもりなんてなかったのよ」


「別にかまわねぇ、知られたからって、どうにかできるようなモンじゃねぇからな」


 リムリムはともかく、殺し殺されるこの世界とは無縁のシアには、この光景は見るに耐えないのだろう。リムリムの背後で顔を伏せたままのシアを見やって、イルは苦笑する。そして、その諦めきった微笑みから目を逸らして、リムリムは口を開いた。


「なんだ……もっと落ち込んでるかと思ってたのにさ」


「なんでだよ」


「だって……父親同然だったんだろう?」


 悲壮な顔をするリムリム。その鼻先を指でピンとはじいて、イルは肩を竦める。


「なんて顔してんだ、馬鹿野郎。似合わねぇっての」


「だってさ」


「それについちゃもう諦めてる。これが俺に振りかかった呪いだからな。身近な人間が俺を殺そうとする。で、勝手に死んでいく。そういう呪いさ」


 身近な人間が自分を殺さなくてはならない状況に陥って、実際に殺そうとしたら、逆にイルに殺される。


 ひたすらその繰り返し。抜け出すことの叶わない最悪のループ。


 それがこの少年の二つ名、最悪イルネスの本当の由来なのだ。


 寂しげに苦笑する少年を見た時、リムリムは自分がこの少年のどこに苛立ちを感じていたのかを悟った。この少年も自分と同じ、孤独な運命を強いられた者なのだ。


 そう思った途端、リムリムの頭の中を稲光のように一つのアイデアが横切った。


 ろくでもない、本当にろくでもないアイデアだ。


 詳細まではわからないが、イルの能力が相手の攻撃を跳ね返すたぐいの物であることぐらいは、リムリムにだって分かった。


 もし本当にそうなら……もしかすると、この少年はリムリムの『毒』も跳ね返すんじゃないだろうか? ところがだ。もしリムリム自身に毒が跳ね返って来たとしても、彼女が自身の毒で死ぬはずがない。


 つまり、何も起こらない。そう、結果として何も起こらないのだ。


 ということは……。


 リムリムが狂おしいほどに焦がれながら、諦めざるを得なかった家族という関係。この少年とならば、愛を交わして子を生し、家族を手に入れることができるんじゃないのか?


 そこまで考えて、リムリムは思わずぶんぶんと頭を振る。


 いや、いや、いや。待て、待て、待て! 慌てちゃダメだ、アタシ! アタシにだって選ぶ権利ってものがあるだろ。こんなクズは、まっぴら御免に決まってる。まったく、何考えてんだ!


 熱を持った頬に手を当てて、リムリムは口をへの字に歪める。


 そんな彼女の様子を、シアがじっと見つめていた。

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