第27話 最悪の少年 その1

「シア、これはアンタのお金だから」


 薄暗い物置の片隅。そこで膝を抱えるシアの足元に、リムリムはそっと布袋を置いた。


 じゃらり。それだけで重みが想像できるような音。


 シアは抱えた膝に口元をうずめたまま、ぼんやりとそれを見つめる。その瞳は虚ろで、言葉を発することも無い。


 静かにシアの返事を待っていたリムリムも、やがて肩をすくめる。


 無理も無い。シアは最愛の弟を失ったばかりなのだ。


 今、シアに必要なのは時間。記憶が薄れるまでの時間、痛みが和らぐまでの時間。


 リムリムは、そっとシアの髪を撫でる。


 大丈夫、此のの上には、明日も陽が昇る。


 時間を奪われて、冷たい土の下に横たわっている弟とは違うのだ。


 そう、このは生きている。この先も生きて行かなきゃならない。


 だから、その為にもお金は必要なのだ。


 今、シアの目の前で、居心地悪そうにたたずんでいる布袋。そいつは間違いなくこの娘の物だ。今、二人がいるを抵当として、借り入れられた金なのだ。


 すでにいくらかはトルクに使われてしまっているだろうし、利子も付いていることだろう。おそらく、このまま金を突き返したところで、満額の返済には届かず、屋敷は手放さざるを得なくなる。言うなれば、この屋敷と引き換えに得た、割りの悪い代価でしかない。


 リムリムは、そっとシアの頬へ自分の頬を寄せる。


 なだらかな曲線を描く白い頬。そこに触れた途端、リムリムはその褐色の頬にわずかな湿りけを感じた。枯れるほどに泣いた跡、赤く腫れたまぶた


 夜明け前、奴隷商の館でシアが弟の死を聞かされてから、まだ数時間しか経ってはいない。今、すぐ立ち直れというのは、あまりにも無神経というものだ。


 リムリムは続いて彼女の首にめられた黒い首輪を指でなぞる。


 今もシアは奴隷身分のまま。たとえ、その奴隷の所有者であろうと、奴隷を無条件に解放することはできない。その行為は奴隷制度そのものを脅かしかねないからだ。


 奴隷が自由民に戻るためには、然るべき手続きを踏んで、奴隷本人が自分の身柄を買い戻すしかない。主の命令を絶対遵守するよう魔道具に縛られた奴隷たちが、そんな大金を稼ぎ出せるはずも無く、故に奴隷が自由民に戻れた例は極めて少ない。


 だからこの金はシアが自由民に戻るために、絶対に必要なものだ。


 もちろん、シアの主となったあの少年の事は信用してはいる。


 あの少年に限ってシアにおかしな事などするはずが無い。いや、出来るはずが無い。


 言うなれば、あの少年は狼の皮を被った子羊だ。クズのフリをして悪ぶってはいるが、内心は馬鹿馬鹿しい程に繊細なのだ。仮にシアが奴隷のままであったとしても、無碍に扱うことはないだろう。


 だが、それとこれとは別の話。奴隷と自由民では生きていくことの難しさが違いすぎる。


 もうすぐこの娘を脅かすものは誰も居なくなる。あとは、あの少年が幕を引くのを待つだけなのだ。


 イルにシアを買い取らせた後、リムリムは、とりあえずシアの父の工房、その裏にある物置へと隠れさせた。


 少年が「もう一人いる」と言っていた標的ターゲットは、どこの誰だか知らないけれど、それも間もなく終わるはずだ。あとは出来るだけ安全な場所で、ただ待つだけだ。


「ねぇ、シア、アンタお腹は空いて……」


 リムリムはそう口にしかけて、ハッと口をつぐむ。


 きしむ様な扉の音。屋敷の入口の方から男達の話し声が聞こえた。


 リムリムは息を殺し、耳をそばだてる。壁越しではあるが、男たちの声はなんとか聞き取ることはできる。一人は……イル。確かに、ここにシアを隠すことなど、少年には知らせていない。


 寄りによって……。リムリムは頭を抱える。


夜の住人ノクターナル』の暗殺者は、互いの能力を秘匿している。それを盗み見するようなことにでもなれば、殺されても文句は言えない。そういう不文律だ。


 リムリムも、まさか少年がこの屋敷で片を付けようとしているなどとは、思っても見なかったのだ。


 リムリムは狼狽えながら、ちらりとシアへと視線を向ける。


 シアの虚ろな目は相変わらず、足下の布袋に向けられたまま。


 彼女はそこに染みこんだ紅い染みをじっと見つめていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る