第26話 最後の接吻(ラストキス) その3

 鼻歌交じりの千鳥足。だらしなく緩んだつらをぶら下げて、トルクが通りを下っていく。


 買物籠を抱えた奥方衆は眉をひそめて目線を逸らし、子連れの一人は「あれがダメな大人の見本よ」と、傍らのわが子に小さくささやいた。


 普段のトルクは劣等感の塊だけに、他人の視線が気になって仕方が無いのだが、今日に限っては話が違う。


 自分の事を好きだと言う女がいるのだ。男の価値も分からないドテカボチャどもが何を言おうが、気にするまでもない。


 ふわふわとした足取りのまま、安宿まであと数ブロックというところまで来て、トルクはハタと思い至る。


「いけねえ、いけねぇっと……」


 浮かれに浮かれた上に酒精に頭をおかされて、考えも無しにここまで来たが、昨晩まで隠れ住んでいた安宿は既に引き払っている。別にもう一度、部屋を取り直しても問題はないか……そこまで考えて、トルクはぶるぶると首を振る。


 きっと今晩は、あの女と一緒に過ごす事になるだろう。隣りの部屋のしわぶきが耳元で聞こえるような安宿などもってのほか。少々金がかかっても良い宿に部屋を取って、花束なんぞを置いてやりゃあ、あの女もきっと喜ぶだろう。


 トルクは背中に背負った頭陀袋ずだぶくろの重みを確かめる。ウォード工房を抵当に入れ、人をあやめて手に入れた金の重み。そうだ。金はあるのだ。


 トルクは少し考えた末に、何度か耳にしたことがある高級な宿の方へと足を向ける。自分には縁のない話と、聞き流すように噂話を聞いていたが、なんでも他国のお貴族さまがお忍びでこの町を訪れる際には、必ずそこを使うらしい。それぐらい豪勢な宿ってことだ。見てくれで門前払いされそうな気もするが、その時は金を見せびらかしてやればいい。そうだ。金はあるのだ。


 元来た道を取って返し、ふらふらと通りを上流階級の連中が住まう地域を目指す。


 流石に飲み過ぎたのか、顔がやけに火照っている。とっとと部屋を取って横になりてえな。と考えて、頭じゃ急いでいるつもりなのだが、覚束ないのが千鳥足。ふらふらとよろめいて、トルクは民家の壁に手を付きながら、ぜぇぜぇと呼吸を荒げた。


「あ、あの、大丈夫ですか?」


 掛けられた声に、トルクが顔を上げると、若い女は「ひっ!?」と絞め殺された豚みたいな声を洩らして、逃げる様に後ずさっていく。


 ったく、失礼な女だ。こんなつらでも、好みのタイプだって言ってくれる女もいるんだぞ。トルクは、心の中でそう吐き捨てると、覚束ない足取りで、路地裏の方へと入っていく。


 薄暗い路地裏。目の奥がチリチリと痛む。なんだか景色が赤く見えてきた様な気がする。膝が痺れてきた、腹が痛い、胸が苦しい。吐こう。一度吐いちまえば、きっと楽になる。


「うげえぇぇぇ……」


 胃の腑が締め上げられるような感覚に、身体をビクンと跳ねさせて、喉の奥からせり上がってくるモノを石畳の上へとぶちまける。


 薄暗い路地裏に、ビチャビチャと響く汚れた水音。ひとしきり吐き終わって手の甲で口元を拭うと、べたりとした感触を覚えて、トルクは思わず眉をひそめる。


 いくら自分の身体から出た物とはいえ、やはり汚いものは汚いのだ。慌ててズボンに擦り付けると、トルクはそこに黒い染みが広がっている事に気付いた。


「な、なんだ、なんだこりゃ!」


 思わず自分が吐き出した物へと視線を落とせば、そこに在るのはどす黒い色をした血溜まり。


「あ、うぁ、うあああ、おおッ! あっ、あっ……」


 圧倒的な恐怖が混乱を引きおこし、熱を持った頭は言葉を形作ってくれない。獣の慟哭にも似た呻きを上げながら、トルクは何が起こったのかと自分に問いかける。


 その時、そんなトルクの背後から小さな子供をたしなめる様な声が聞こえた。


「あらあらァ、大丈夫ぅ」


 振り返れば、陽の差す明るい通り、路地の入口の辺りにさっきの女が佇んでいる。


「い、良いところに……い、医者を、医者を呼んでくれぇ!」


 なりふり構わず、トルクは咽び泣くような声を上げる。しかし、女はただ呆れたように肩をすくめる。


「あ、無理、無理。意味無いもの」


 小蠅でも払うかのように、顔前でパタパタと手をふる女。その様子にトルクは、一瞬ぽかんとした表情を浮かべた後、声を限りに叫び声を上げた。


「お、お前ェ! 俺に何をしたあぁぁぁぁ!」


「何をって、もうアタシと接吻キスしたこともわすれちゃったの? 淋しいなァ」


「ふざけるなアァァ!」


 怒りの余りに足を踏み鳴らした途端、トルクはそのままガクリと膝をつく。膝から下の感覚がない。トルク自身何が起こっているのかわからず、顔を恐怖に引き攣らせる。


 どんどん身体の自由が奪われていく、痺れが身体中へと広がっていき、ついにはぬかるんだ路地裏の地面へと、頬を押し付けるように這いつくばった。


「お、お前、一体……」


夜の住人ノクターナル


 そう言って女はクスリと笑い、トルクの表情を驚愕の色に塗り替える。


 暗殺集団? そんな連中がなんで俺を。


「た、助けて……」


「むーり」


「な、何しやがった……、このあばずれ」


 真っ赤に充血した目を見開いてトルクは、女を睨み付ける。


「そんなに知りたい? じゃ、折角だからちょっと昔話でもしちゃおうかしら」


 ひゅーひゅーと喉を鳴らしながらトルクは女に手を伸ばす。だが、女は手の届く範囲にはいない。


「それはもう馬鹿馬鹿しい話さ。ある貴族の御曹司がね。家政婦メイドに手を付けて、孕ましちまったのさ。まあ、それは良くある話」


 女が何を喋り出したのか、トルクには見当もつかなかったが、今はそんな井戸端の噂話なんぞ聞いている場合じゃない。


「まぁ、めかけの一人や二人居て当然。貴族の御曹司なら目くじら立てるほどのこともない。ところが、ところがねぇ、その御曹司の婚約者ってのが、異常なほど嫉妬深い女でさぁ。どうしても自分の旦那になる男を寝取ったその家政婦メイドが許せなかったのさ」


 路地裏に響く荒い息が、次第に小さくなっていく。その小さな響きでリズムをとって、歌うような調子で物語を紡ぐ女。


「御曹司の方は家政婦メイドを手放す気は無かった。親が決めた婚約者なんてものと違って、本当に愛していたのは家政婦メイドの方だったんだから、そりゃあ当然。嫉妬に狂ったその婚約者ってのが、どこでどうやったのかは知らないけれど、女に呪いをかけたのさ。とびっきり趣味の悪い呪いをね。そして、そんな事も知らずにその家政婦メイドは赤子を産んだ」


 トルクの黒目は裏へと返り、白目の部分は真っ赤な血の色。呼吸の音もほとんど絶えつつある。そんなトルクの様子には目もくれず、女は自分の語る物語に感情を走らせる。


「それはもう、可愛い可愛い女の子さ。母親譲りの褐色の肌。父親ゆずりの蒼い瞳。御曹司は大喜び。喜んで跳ね回る御曹司の姿に微笑ながら、家政婦メイドは生まれたばかりの我が子に接吻キスをした」


 そして女の言葉が途切れて、唐突な沈黙が訪れる。



 女の瞳が陰鬱な陰を宿し、宙空をぼんやりと見つめた。


「その赤ん坊の身体の中に流れる液体という液体は全て猛毒。おぞましい毒虫さえ怯むほどの猛毒。唾液は遅行性、血は即効性。極めつけは濃硫酸の涙。その子と交われば皆、死に絶える。婚約者の呪いが、その赤ん坊から奪ったのは愛だったのさ」


 女の瞳からこぼれ落ちた一滴が、ぬかるんだ地面に落ちて、ジュッ! という音と共に煙を立ち昇らせる。


「誰とも愛を結ぶことを許されないその子は、そのままその貴族が没落するまで屋敷の一室で、人目に触れないように育てられたのさ」


 女が小さく息を吐くと、凍り付いてそのまま地面に転がりでもしそうな程に凍てついた沈黙が居座った。


 表通りの喧騒が遠くに響き、この薄汚れた路地裏だけが、時間の檻に取り残されたように思える。女は手巾ハンカチを手にして涙を拭うと、煙を上げて溶ける布地に溜息を吐いて、トルクの方へと目を向ける。


「女ってのはね。自分の話を黙って聞いてくれる男が好きなのさ。人の話を最期まで聞けない男はモテやしないよ?」


 その言葉に、トルクが返事を返す事はなかった。



 ◇ ◇ ◇



「まったくどうなってやがる」


 苛立つボードワンの様子に、他の衛士達はそっと目を逸らす。


 昨晩はヤクザ者共の変死体。今朝もまた薄暗い路地裏で変死体の相手をしなきゃならないとは、たとえ仕事とはいえたまった物ではない。


 ボードワンは、薄暗い路地裏に横たわる、気味の悪い死体を見下ろす。見開いた目は血に染まって真っ赤。身体の穴と言う穴から血を滴らせて、なめくじのように身体をくねらせて、ぬかるみの中に転がっている。


 余りにも不気味な死体。呪いにでもやられた、そう理解した方が納得出来そうにさえ思える。


「で、コイツの身元はわかったのか?」


「それがまだ、ふところから出て来たこの紙以外には、持ち物らしきものも見当たりませんし……」


 ボードワンは若い衛士の手から、その紙をひったくって目を落とす。


「なんだ?」


「はい、どこかの飲み屋の伝票みたいですが、裏に地図が描いてあります」


 たしかに走り書きのような簡単な地図に、×印が描かれている。筆圧の強さを思えば、書いたのはたぶん女だろう。


「この印の所、ここには何がある?」


「それが……」


 若い衛士は一度そこで口ごもり、声を潜めて言葉を繋ぐ。


「……墓場です。昨晩殺されたヤクザ者たちを埋葬させた、歓楽街の裏手にある、あの墓場です」


 途端に、ボードワンの片方の眉が跳ね上がり、苦々しい表情を形作った。


「じゃあ、何か? コイツは埋葬されるために、自分で墓地に向かってる途中で力尽きたってのか? 馬鹿馬鹿しい」


 ボードワンが呆れたようにそう吐き捨てた途端、表通りの方からドタバタと走り寄ってくる者の姿があった。


 薄暗い路地裏の中から明るい表通りの方へ目を向けて、ボードワンは逆光に目を細める。そこにあったのは、息せき切って駆けてくる見習い衛士の少年の姿。イルはボードワンの目の前で足を止めると、ひざに手をついて、はぁはぁと息を整える。


 全く、衛士のくせに走るぐれぇで、こんなに息を荒げるとは、明日から、またしごいてやらなきゃならねぇな。と、呆れる顔のボードワンを見上げて、イルはこう声を上げた。


「オヤッさん、見つけました! 『暗緑鋼の製法』が見つかったんです!」

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