第25話 最後の接吻(ラストキス) その2

 やがて陽が昇り、商館の扉がゆっくりと開いた。


 酷い猫背で銀髪の少年が、扉を開けるなりそこに座りこんでいたトルクを見つけて、ギョッと目を丸くする。


「ど、奴隷をお求めで……すか?」


「ああ、女奴隷を一人」


「そ、そうですか、で、ではこちら……へ」


 銀髪の少年はオドオドしながらも、トルクを商館の中へと招き入れ、奥の部屋へと案内した。


 通されたのは壁一面が緑のカーテンで覆われた部屋。しんと張りつめた空気。拒絶するような静寂。トルクは一分一秒を永遠のように感じながら、静かにそこで待った。


 やがてこの商館の女主人が扉を開けて、静かに部屋へと入ってきた。


 白いローブを目深に被った女。こいつが噂に聞く、女主人のクリカラってヤツだろう。口元だけしか見えないが、そこを見る限り、それほど年齢がいっているようには見えなかった。


「大変、お待たせしました。どのような奴隷をお求めでしょう?」


「昨日、ここに売られた女……シアって名前の女だ」


 トルクがテーブルの上に身を乗り出すようにして、そう言った途端、女主人の口元が小さく歪んだ。


 笑った、いや困ったような表情。見えるのが口元だけでは、はっきりとは分からない。


 女主人が、ゆっくりと口を開く。


「その奴隷ならば……」


 その後のことについては、思い出すのも腹立たしい。


 結論から言えば、シアはそこには居なかった。既に買い取られた後だと言うのだ。


 有り得ない。


 通常、奴隷が商品として店頭に並ぶのは、どんなに早くとも身を売った翌日からだというのは、よく知られていることだ。


 隷属の首輪をめるための術式を施したり、病気や障害を持っていないか身体を念入りに検査した上でなければ、値もつけられないからだ。


 それが判っているからこそ、翌朝一番、店が開く前に誰よりも早くここを訪れたというのに、目の前の女主人はそれを否定する。


「昨晩、大得意さまがいらっしゃいましてねぇ。ま、大得意さまの為に便宜を図るのは商人として当然。時間外でも店を開けます。で、シアでしたか。あの子を大層気に入られましてね。そのまま連れて帰られましたよ」


「……どこのどいつが?」


「は?」


「どこのどいつが、シアを買ったんだ!」


 激昂して睨み付けてくるトルクを、女主人はせせら笑う。


「やめてください、お客さん。それを洩らしてしまっては、それこそ商人として生きていけません。どうです、他にも良い奴隷がいますよ 見てみませんか?」


 泣き笑いのような複雑な表情が、トルクの顔に浮かび上がる。


「ちくしょう!」


 あまりの腹立たしさに椅子を蹴り上げて立ち上がり、トルクは扉を蹴破るようにして商館を後にした。


 そして今、たまたま開いていた食堂のカウンターで、こうやって飲んだくれているというわけだ。


「ちくしょう! ちくしょおぅ!」


 同じ言葉を何度も繰り返しながら酒をあおり、トルクが大声を上げる度に、給仕の少女がビクリと身体を強張らせる。


 時刻はまだ午前。店を開けた途端に入ってきて、そのまま飲んだくれ続けている男の扱いに困って、店主は呆れ顔で何度目かわからない溜息をついた。そんな時――


「あらま、にぃさん、荒れてるねえ~」


 肩越しに女の声がして、トルクは背中に柔らかな感触を覚える。


 突然背後から女がしな垂れかかってきたことに、トルクは驚き、戸惑い混じりに上擦った声を上げた。


「な、なんだぁ、あんた?」


「何だとはご挨拶ねぇ。この間、会ったじゃない。シアんトコで」


 シア。その名が出たことに、思わずトルクは身を強張こわばらせ、そして次に身体を捻って、女の顔をまじまじと眺めた。


 確かにこんな女がいた。だが、特に言葉を交わした覚えは無い。


 へそ丸出しのやたらに布地の少ないドレスを纏ったその女を、シアの知り合いにしては、下品な恰好をした女……ぐらいにしか覚えてはいなかった。


 女はトルクの背中へと、甘えるようにますますしなだれかかってきた。


「ねえ、シア、ドコ行ったか知らない? 今日、家を訪ねてみたら誰も居なくてさぁ」


「……さ、さぁな」


 何かしらカマを掛けられているのかもしれない。そう考えて、トルクは言葉少なに答える。


 そんなトルクの様子を気に掛けることも無く、女はあらためてトルクの顔を覗きこむと、悪戯っぽい微笑を浮かべた。


「それにしてもぉ……にぃさん、やっぱりアタシの好みのタイプだわぁ」


「は?」


 それは、あまりにも聞き馴れない言葉。


 好みのタイプ? 誰が? 俺が?


 醜男ぶおとこ。トルクには自分の容姿が一般的にそう呼ばれる範疇にある。そういう自覚がある。実際、産まれてこの方、そう言われ続けてきたのだ。


「兄さん、彼女とかいるのぉ?」


「い、いるわけないだろう。そ、そんなの」


 からかわれているだけだ。自分にそう言い聞かせながら、トルクは手元の酒を一気にあおる。


 その瞬間――


「じゃあ、アタシなんてどう?」


 まるで新たな酒を薦めるかのような気軽さで囁かれたその言葉は、トルクの頭の中で上滑りして、音と意味がなかなか結びつかない。


 アタシナンテドウ……あたしなんてどう……アタシなんて、どう!?


「ブフゥゥゥゥゥゥゥ!」


「きゃっ!」


 トルクが口に含んだ酒を噴水のように吹き出すと、女は短い悲鳴を上げた。


 カウンターの上に水溜りが出来て、店主が顔をしかめると、給仕の少女が慌てて布巾を持って駆け寄ってくる。


「か、か、か、からかうんじゃねぇよ!」


 上ずった声を上げながら給仕の少女の手から、布巾をひったくるようにして受け取ると、トルクはカウンターの上を慌ただしくぬぐいながら、女の顔を再びまじまじと見直す。


 つややかな黒髪、褐色の肌に深い蒼の瞳。派手派手しい化粧が台無しにしているが、顔立ちそのものは相当な美人のように思える。シアとは正反対の女。だが、魅力的な女であることに違いない。


「アタシじゃダメ?」


 女は人差し指を軽く咥えながら媚びるように、潤んだ瞳で上目遣いにトルクを見つめる。


 たじろぐトルク。その頭の中をシアの姿がかすめる。だが、それはもう手の届かないところへ言ってしまったのだと、胸の奥で誰かが囁いた。


「ダメ……じゃない」


 ぽおっと熱に浮かされたような表情でトルクは呟く。


 そうだ、シアはもう手に入らない。生きていく為に十分な金は手に入れた。だが、金貨、銀貨を抱えて、この先一人淋しく生きていくのかと思えば、目の前の女が天使のようにも思えてくる。


 実際、これだけの美人に迫られることなんて、この先あるわけがない。


「じゃあ、チューして」


「は? え? ええっ?!」


「ほらぁ、は・や・く」


 女は背中へとさらに強く胸を押し付けてきて、その柔らかさにトルクの思考が空転する。何をどうしていいかわからず、目を白黒させるトルク。その姿に女はクスリと笑うと、指先でトルクの顎をつまみ、背後から覗きこむようにして、トルクの唇へと自分の唇を押し当てた。


 トルクは驚いて目を見開く。しかし、女はそんなトルクの様子を気にもかけず、彼の頭を抱え込むようにして、さらに強く自らの唇を押し当ててくる。


 次第に女の舌がトルクの口の中へと侵入してくる。女の舌がトルクの口腔を嘗め回すと、その舌の動きが生々しく頭の中に描かれる。頭の中で火花が散り、唯でさえ酔いが回って冷静さを失ってた思考が、頭の中でチリチリと焼け付いていく。


 クチュクチュという淫らな水音が店内に響くと、給仕の少女は頬を赤らめて恥ずかしげに目を伏せ、カウンターの奥で店主が眉を顰めながらトルクと女、二人を怒鳴りつけるべきかどうか迷うようなそぶりを見せた。


 やがて、ゆっくりと唇が離れると、唇から蜘蛛の糸の様な白い糸が引き、そして途切れる。とろんとした目つきの女の姿に、得体の知れない征服感が背筋を這い上がってきて、トルクが女の胸へと手を伸ばすと、女はその手を軽くはたいた。


「もう。……そういうのは暗くなってから」


 片目を瞑りながら、悪戯っぽい表情で囁く女。トルクはだらしなく表情を崩し、えへへと笑う。


 悪くない。今まで女にモテたことの無い男にとって、それは夢かと疑うほどに甘い出来事。


 女はきょろきょろと辺りを見回すと、伝票を見つけ、その裏にさらさらと地図を描いてトルクに握らせる。


「今晩、ここに来て」


 トルクはこくこくと頷くと、女はトルクの顎を撫でまわしながら耳元で囁く。


「じゃあ、今日は一旦お別れしましょ。ちゃんと酔いを覚ましてから来てね。夜は長いんだから」


 再びトルクはこくこくと頷くと、だらしなく相好を崩しながら、席を立つ。このままここに居ては、理性を抑えきれない。


 夜。今夜、今夜のお楽しみだ。あまりがっついて、この女に嫌われてしまっては元も子もない。


 やっと帰ってくれる……と、ホッとした様子の店主。トルクは勘定をすませると、何度も女の方へと振り返りながら店を出る。


 ふらふらの千鳥足、やけに酔いが回っている。トルクは上機嫌。今にも歌いだしそうな様子で、引き払ったことも忘れて、今朝まで隠れ住んでいた安宿の方へと足を向けた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る