第24話 最後の接吻(ラストキス) その1
「親父ぃ! もう一杯だ!」
空になった陶製のジョッキを掲げながら、カウンターで男が
まだ昼前だというのに、次から次へと相当なペースで、浴びる様に酒を飲みほしていく男。
食堂の店主は呆れた様子を隠そうともせず、溜息まじりに新しいジョッキを差し出す。
「お客さん、程ほどにしといた方が良いんじゃないですかね」
「ンぁ、うるせえよ。俺ァ客だぞ、馬鹿野郎ぅ」
回っていない
この街では、午前中から開いているような飲み屋は多くない。
ここは酒
この男の名はトルク。
今はこれほどにやさぐれてはいるが、つい数刻前まで、彼は幸福の絶頂にいたのだ。
今朝早くのことだ。トルクは隠れ住んでいた安宿の主人に叩き起こされ、ヒルルクが死んだことを教えられた。
「自分の手下に殺されたらしいぜ」
安宿の主人は興奮気味にそう
とはいえ、噂話をそのまま信用して、街中でばったりヒルルクと出会うようなことにでもなれば、流石に目も当てられない。
トルクは取る物も取りあえず、安宿を出る。
そのまま早朝の薄闇に紛れて、歓楽街の方へと様子を見に行ってみれば、ヒルルクの娼館の周りには、未だに衛士たちがウロウロしていて娼館前の道も封鎖されていた。
間違いない。ヒルルクは死んだんだ。そう確信した途端、喉の奥から笑いがこみ上げてきた。
それまでこそこそと隠れ回っていたのが急に馬鹿馬鹿しくなって、トルクは道のど真ん中へ出て大声で笑った。笑わずには居られなかった。店が跳ねて帰宅を急ぐ夜の女たちに、おかしな物を見るような目を向けられる事も気にならなかった。
これで、トルクが恐れなければいけないものは、何も無くなったのだ。
トルクは一旦宿へと戻ると、ベッドの下に隠してあった荷物を全部引っ張り出して、宿を引き払った。
金はあるのだ。ウォード工房を抵当に入れて手に入れた金が。もはやこんな安宿に隠れている理由など無い。
トルクは思わず夢想する。
欲しい物を片っ端から手に入れて、郊外に小さな家でも買って引き籠り、そこで奴隷に墜ちたシアと二人、
夢にまでみたあの美しい身体を思う存分になぶり、自分から離れられなくなるまで徹底的に調教する。
シアは一体どんな声で鳴くのだろう。
あのかわいらしい唇が自分を求めて、甘えた吐息を零すところを想像して、思わずジタバタと足を踏み鳴らした。
そして散々世話になった安宿に、後ろ足で砂を掛けるようにして立ち去ると、トルクは意気揚々と飛び跳ねながら、そのまま高級住宅街の方へと足を向ける。
目指す先は、この街一番の奴隷商『クリカラ』の商館。奴隷へと陥ちた愛しい少女、シアを手に入れるために。
歪み切った形ではあるが、数年越しの想いが遂に成就するのだと思えば、自然と鼻歌もこぼれ出る。
気持ちは
白みゆく空を眺めながら、感慨に
そもそもトルクが、あの神経質な馬鹿親方の元に弟子入りしたのも、街中で
当時シアはまだ9歳。子供だった。しかし、天使の様に
仕事もせず、世の中を嫌い、世間に嫌われながら、ゴロツキ同然に生きていたトルクは、自分を爪はじきにするこの薄汚れた街に、あんなに綺麗な生き物がいたのかと、愕然とした。その姿を目にした途端、トルクの中で今まで感じたことの無い感情が頭をもたげたのだ。
――あの娘が欲しい。
俗な言い方をすれば、一目惚れ。それは抗いがたい欲望として、日に日にトルクの中で大きくなっていった。
日に日に膨らんでいく欲望。それはやがて遠くから眺めるだけでは、収まりがつかなくなっていった。
そして、トルクは、どうにか
なんだかんだと言っても、戦乱の芽の尽きない世の中である。鍛冶師は食いっぱぐれの無い、人気の職業だ。普通ならば、弟子入りしたいと願っても、そう簡単に出来るものでは無い。
だが、当時のウォード工房は、シアの父――親方の腕の良さはこの街随一と高い評判を得てこそいたが、反面、親方のあまりの神経質さに弟子が皆逃げ出して、誰一人として居付いておらず、人手が足りていなかった。
そんな時に、それまで鍛冶の経験も無いゴロツキが突然、心を入れ換えるからと、弟子入りを志願してきたのだ。渋々ではあったが背に腹は代えられないと、親方は弟子入りを認めた。
弟子入りを願い出た時の、親方の吐瀉物を見るような目をトルクは未だに覚えている。
だが、ここで鍛冶職人として一人前になれば……。この親方に尽くしに尽くして認めてもらえれば……。将来はこの工房を継いで、あの綺麗な娘と結婚させてもらえるかもしれない。
そんな淡い夢がトルクを耐えさせた。
親方はいつも理不尽だった。次から次へと弟子が逃げるのも当然。しかしトルクは耐えてみせた。
住み込みで、シアと同じ屋根の下で暮らせる。それだけで、天にも昇る気持ちだったのだ。
ところが……親方が
ある日の夕方、親方ははっきりと明言した。ウォード工房の跡継ぎは、息子のペータ。ペータが一人前になるまでは
そしてシアについては、第二婦人、第三婦人で良いから、どこかの貴族に
そんなことを言い出したのだ。
トルク以外には誰も、トルクとシアが一緒になるという未来を想像しては居なかった。しかし、自分勝手なことに、トルクはこう思ったのだ。
親方の理不尽に耐え、来る日も来る日もあれだけ尽くして来たというのに、トルクの目論見は全くの的外れに終わろうとしていた。
そんな時だ、ヒルルクがトルクに接触してきたのは。
暗緑鋼の製法を手に入れろ。そうすれば、お嬢ちゃんを従順な奴隷へと沈めて、お前にくれてやる。
どこでトルクがシアに執心している事を知ったのかは分からないが、それは、突っぱねるには余りにも魅力的な誘いだった。
そして遂に、トルクは親方を殺した。
ヒルルクから親方を殺せと言われたわけではない。これについては、積りに積もった私怨の部分の方が大きい。
ただあの神経質な親方が、折角見つけた製法を書き残していない訳など無く、それを手に入れようと思えば、どう考えても親方の存在は邪魔でしかなかった。
ところが、親方の死後、どれだけ工房の中を探しても
ヒルルクからは、まだかまだかと毎日の様に催促がやってくる。
やがて痺れを切らしたヒルルクは、トルクに屋敷を売り払うように指示してきた。
親方が借金を残したとシアに迫り、
屋敷を売った金はヒルルクに上納することになっていたが、ここでトルクはヒルルクを裏切った。
トルクは、シアをいくら追い詰めても
だが、いつまでも出てこないとなれば、ヒルルクはシアに直接手を掛けかねない。それはトルクにとっては不都合なのだ。
シアを自分の物に出来るのであれば、
結局トルクは、ヒルルクを出し抜いて大金を手に入れ、口八丁を駆使して、シアを自ら奴隷へと堕とさせることにも成功した。あとは、従順な奴隷へと堕ちたシアを買い取って、この国から脱出する。
そのつもりだった。そのつもりだったのだが……。
ヒルルクが死んだ以上、この街を脱出する必要も無くなった。
唯一上手くいかなかったことと言えば、シアが自分の身を売った金を弟のペータに持ち逃げされたことぐらいだ。だがその代り、あの邪魔なガキを追い出す事ができた。
八つ当たりでしかないが、あのガキのせいでウォード工房を継ぐ事が出来なかったという想いもある。逃げられはしたが足を折り、
親方、ヒルルク、ペータ。
トルクの邪魔をするものは、みんな……みんな死に絶えた。
あのシアをかしづかせ、その体を思うが儘に
トルクはこの時、幸せの絶頂にいた。
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