第18話 ドロウ・ザ・ライン
ペータは革袋を握り締めて逃げ出した。
追いかけてくる。トルクおじちゃん……違う。トルクのヤツが追いかけてくる。大人と子供の脚では勝負にならない。只、必死に前を向いて走る。振り向いている余裕なんてどこにもない。時々追いつかれては弄ぶように背中を蹴り上げられ、為す術も無く地面を転がる。痛みと涙をこらえながら直ぐに起き上がると、ペータは再び走り始める。
背後からは、捕まえる事ならいつでもできるとばかりに、トルクの鼻歌が聞こえてくる。怖い、ムカつく、怖い。
「まて、この泥棒!」
トルクは通りすがりの人間たちの目を気にして、そう声を上げる。店先から商品を盗んだワルガキを追いかける店主。通りを行き交う人達の目には、そんな風に映っているに違いない。腹が立つ。泥棒はそっちなのに。言い訳する余裕も、弁明する暇も無い。
「お姉ちゃん! お姉ちゃん! お姉ちゃん!」
切れた口の中に広がる血の味を味わいながら、ペータは思わずそう繰り返す。弱音、そう弱音だ。お姉ちゃんという言葉が、ペータの口の中で血に塗れている。
この手の中にある金は、お姉ちゃんが自分を売った金。トルクはそう言っていた。「この金でオマエのお姉ちゃんを買い戻してやる」トルクはそう言って
物珍しそうにこっちを見ているだけの連中に腹が立つ。そんな中、通りすがりのお婆さんが「大丈夫?」と声を掛けてくる。「助けて!」そんな言葉が口から零れ落ちたけど、言われたお婆さんは困ったような顔をした。なんだよ! なら最初から言うな。怒鳴りつけてやりたくなったけれど、そうしている間にトルクに追いつかれそうになって、ペータは転がるように走り出し、「助けて」って言葉はその場に置き去りになった。
つかまってしまえば酷い目に合う。いや今だって十分に酷い目にあっている。お姉ちゃんをこんなやつに渡すわけにはいかない。渡してなんかやるもんか。我慢していた涙が体の中に満ちて、鼻の奥に溜まっている。唾を吐く、赤い唾、顔についた土を払いながら、ただ走る。大人が入れないところ。どこか、そんなところは無かったかな? そうだ! ぐるりと辺りを見回して、ペータは通りを右へと曲がる。いつも遊んでいる公園。草がぼうぼうで手入れの雑な公園。その公園の植え込みに飛び込んで、ペータは四つん這いになりながら前へと進もうとする。すると、途端に足を掴まれて、引っ張り出されそうになった。
「おっと! 面倒かけさせんじゃねえよ」
植え込みの外からそんな声が投げかけられて、足を掴む手を必死にもう一方の脚で蹴りつける。
「痛えな、観念しやがれ、このクソガキ!」
トルクが腹立たしげに
植え込みの奥で息を殺す。進む先、公園の中から、トルクの
息を殺して潜む。トルクは近くを言ったり来たり。心臓が跳ねそうになるぐらい、すぐ近くの植え込みをトルクの蹴りが払う。いつまでもここに居れば見つかる。逃げ出すなら問題はタイミング。だが、植え込みの下で身を伏せていると、公園の中で遊んでいた小さな女の子と目があった。女の子はこっちをじっと見ながら首を傾げる。ダメ! こっちを見ないで! 見ないでってば! 途端にトルクの
「ぶっ殺してやる!」
トルクも、もう遊んでくれるつもりはないらしい。振り向けばヤツの顔に浮かんでいるのは、さっきまでの余裕ありげな表情じゃない。ビリビリとこっちまで伝わって来るような怒りに塗れて、足音もドタドタ。あ、そうか、なるほど、こっちに逃げられると厄介。そういうことか。こっち向きに走っていけば、そのうち貧民街に突き当たる。お姉ちゃんからは入っちゃダメだと言われていたけど、ぐねぐねと曲がりくねる路地裏は遊び場としては最高で、友達みんなでちょくちょく入り込んでは、鬼ごっこをしている。細い路地、穴の開いた壁、崩れた廃墟。大人の身体じゃ入り込めないような場所なら、あそこにはいくらでもある。
貧民街に入ってすぐ右の路地を曲がり、次は左、右、右、左。裸足の右足は石の角で切れて、足跡に血が混じる。腫れ上がってきた。暑い、熱い、顔が熱い、蹴られた背中が熱い、足が熱い。どうしてこんな目に合うんだろうと、その場にしゃがみ込んで泣き
「おい、待ちやがれ!」
背中からトルクの声。やばい、やばい、やばい。必死になってゴミをかき分ける。見えた! 例の穴だ。向こう側には綺麗な石畳。貧民街の壁一つ隔てた向こう側は高級住宅街だ。わざわざ貧民街と壁を隔てて、ハイソな連中が住んでるってのは、こっち側を見下す為としか思えない。馬鹿かよ、今はそんなことを考えてる場合じゃないだろ。トルクがゴミの山に足を踏み入れてきた。捕まる! 慌ててヘッドスライディングするように、穴のほうへと身体を投げ出す。その途端、ぎゃっ! と口を衝いて声が漏れる。ボキンと鈍い音がして、裸足の右足に言いようも無い激痛が走った。ちくしょう! 踏みやがった。トルクの奴が飛びついて、僕の足を踏みやがった。自分の意志とは関係なく、情けない悲鳴が上がる。ジンジンと拍動するような感触を足に感じながらも、ペータは前に進もうと、必死でもがいて腕で這いずる。もう腰までは壁の向こう側に出ている。あと一蹴り、それできっと逃げ切れる。
だが――
「ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
痛い! 痛い! 痛い! 今、
手に赤い血が付いた。どくどくって流れている。見れば
「すぐに、そっちへ周って捕まえてやるからな!」
馬鹿野郎、つかまるもんかよ! 貧民街の入口を出て、ぐるりと周ってここへ来ようと思えば、どうやったって半刻はかかる。逃げられる。逃げられなきゃならない。
◇ ◇ ◇
薄闇の路地裏に、茜色の夕陽が差し込む。
ペータは呻きながら、ぼんやりと目を開く。
どのくらい気を失っていたのだろう。身体を起こそうとしても、全く力が入らない。周りに人の気配は無い。どうやらトルクのヤツには、まだ見つかっていないらしい。
路地裏のどこかの家から、賑やかに笑いさざめく声が聞こえてくる。
「ハンナ! お誕生日おめでとう」
どうやら、そこの家の娘の誕生パーティの真っ最中らしい。
おめでとうハンナ。ボクの命日は、どうやらキミの誕生日らしい。
結局、トルクから逃げ切りはしたものの、僕の命はもうすぐ尽きる。お姉ちゃんを助けることは出来なかったし、痛い思いをしただけの全くの無駄。ぼんやりとした目に、じわじわと涙が溢れてくる。
誰か姉ちゃんを助けてよ。
神様が本当にいるんなら、救いの手の一つも差し伸べてくれてもいいじゃないか。
ボクが良い子じゃなかったから? 神様の癖に、そんなケチくさいこといわないでってば。
涙に滲んだ眼で見上げた空。路地の壁に切り取られて、長細い四角の茜空。
ぼんやりとそれを眺めていたペータの目が、壁面の窓に止まる。
茶色? 茶色のカーテン?
ペータの視線の先にあったもの。それは緑のカーテンの架かった窓。だが、それが差し込む夕陽に照らされて緑+赤。今は茶色へと染まっていた。
茶色のカーテンが掛かった窓、その下で合言葉を言えば、暗殺集団『
サン・トガンに住まう者なら誰もが知っている噂話だ。
ペータは窓に向かって手を伸ばし、その指先が空しく宙を掻く。
そして、呻き声と聞き間違えそうなほどに弱弱しい声が、幼い子供の口から零れ落ちた。
合言葉は――
「
ここからここまでが死にゆく者、ここからここまでが生き残る者。
死すべき者を、境界線の向こうへと追いやってくれ。
そういう意味だ。
ペータの声が途切れたのと同時に静かに窓が開いて、茶色に染まったカーテンの向こう側に、人影が浮かび上がった。
「依頼を聞きましょう」
それは、女性の優しい声。
「……姉ちゃんを助けて」
「少年、勘違いしてはいけません。我々は暗殺集団。人助けは我々の仕事ではありません」
ペータの目には、もはや何も映ってはいない。
「……姉ちゃんを、ひ、酷い目に合そうとしているやつらを殺……して、みんな、みんな」
「いいでしょう。ですが……安くはありませんよ? それで良いというのなら、あなたが殺してほしいと望む人物、それを教えてください」
問い返されたその言葉に、もはや返事は返って来なかった。
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