第17話 爪を噛む
雇われ店主が不本意な仕事を終えた頃、表通りをウォード工房の方へと、上機嫌で歩いていくイルの姿があった。
トルクがヒルルクを出し抜いていたというのはいささか予想外だったが、それを除けば
もちろん、ヒルルクのヤツは『暗緑鋼の製法』を諦めはしないだろうが、金を払ってやりさえすれば、言いがかりをつけるための口実を失う。当面の時間ぐらいは稼げるだろう。
そんなことを考えながら通りを歩いていると、パンの焼ける良い匂いがイルの鼻腔をくすぐった。
そういやあ、朝飯喰ってなかったな。と、ふらふらとそちらに足を向けたところで、通りの向こう側からイルを怒鳴りつける女の声がした。
「ちょっと、アンタ! そんなところで何やってんのよ」
それは、
「ちっ、なんだ、ペロペロかよ」
「そんな、なめた名前じゃないわよ!」
「
「うるさい! それどころじゃないっての!!」
リムリムは頭から湯気を出さんばかりに、イルに詰め寄る。
「まあ聞けってば、とりあえずあの屋敷を勝手に抵当に入れて、金を奪った奴がわかったぜ。そいつ締め上げて金を奪いかえせば、とりあえずはしのげるはずだ」
一瞬、きょとんとした表情になるリムリム。しかし、今度は怒るというよりは、泣きそうな顔になって、金切声を上げた。
「それどころじゃないんだよぅ。シアが! シアがいなくなっちゃたのよぉ!」
「あん? てめえ、そりゃどういうことだよ! ちゃんと見てたんじゃねぇのかよ!」
イルはリムリムの胸倉を掴んで睨み付ける。しかし、リムリムはその手を払いのけると、逆にイルの手を掴んで睨み返した。
「朝起きたら居なくなってたのよぉ! 寝る時には一緒のベッドに寝てたはずなのに!」
「ペータは? ガキはどうした!」
「ペータ? 自分の部屋で寝てた……と、思うけど?」
イルがまず疑ったのは何もかもが嫌になって、この街から逃げ出したという可能性だ。しかし、あのシアに限って、弟を置き去りにすることはまずあり得ない。
「昨日、俺が帰った後は、何か変わったことは無かったか?」
「そう言えば、弟子の何とかってのが……」
「トルク!」
「そう、そいつが訪ねて来てた」
「何しに来た? 何て言ってた? シアに何か言ってたか?」
イルが詰め寄ると、リムリムはきまり悪そうに目を逸らした。
「……聞いてなかった」
途端に、イルは表情を一変させた。
「馬鹿野郎! テメェ! 昨日、あんだけ大見得切っといてそれかよ! 使えねえ女だなあ! 踊るしか能のねえ筋肉馬鹿! 死んじめぇよ! 役立たず!」
言われたい放題だが、リムリムとしては大見得を切った手前、ちょっと言い返せない。彼女は俯いたままじっと耐えていたのだが、イルの罵声がさらに続きそうな気配を見せたところで、突然、ドスの効いた低い声でぼそりと呟いた。
「悪かったわよ、お詫びにチューさせてあげる」
チュー? なんでチュー? あまりにも脈絡のない発言。意味がさっぱりわからない。だが、どういうわけか、この発言の裏側に濃密な殺意を感じて、イルは肌を粟立てながら一歩後ろに飛び退いた。
「お、お断りだ。何がお詫びだ。罰ゲームかよ! くそビッチ!」
「あんたねえ、ソコまで言う!」
地団駄を踏むリムリムを尻目に、イルは思考を巡らせる。
まあいい、シアの居所は大体想像が付く。トルクが何しに現れたか? それはシアを奴隷に沈めるために違いない。
ヒルルクの話ならトルクはシアに執着している。金を手に入れたからといって、それで満足してシアのことを諦めるわけがねえ。
シアは素直な良い娘だ。素直ってのは言い換えりゃ騙されやすいアホって事だ。
だから、弟を守るためと焚き付けりゃ、自分から奴隷に身を堕とさせることなんて簡単なことだ。やろうと思えば、たぶん俺でもできる。
だが、シアのことなら慌てることはねえ。
今日奴隷として身を売ったって店頭に出るのは早くて明日。シアが身を売ったってんなら、その代金がペータの元に届くはず。また借金が嵩むことにはなるだろうが、それに
しかし、そこまで考えて、イルはその場で硬直する。
「しまった! ペータがやべぇ!」
突然声を上げると、通りを歩く人たちを突き飛ばすようにして、イルはなりふり構わず走り出した。
そこまで段取りつけたんだ。俺がもしトルクの立場なら、シアが身を売った代金を狙わねえ道理がねえ。隷属の首輪を付けられて、絶対服従の奴隷に陥ちたシアを買い取り、ヒルルクの手を逃れてこの町から逃げる算段をつけるなら、金はいくらあっても困りやしねぇ。
「ちょ、ちょっとアンタ! 待ちなよ!」
リムリムは驚いて声を上げると、イルを追って走り始める。やがて二人がウォード工房まで辿り着くと、門扉は空いたまま、玄関のドアも開け放されているのが見えた。
「ペータ! おい! どこだ!」
イルは玄関の中へ飛び込むなり、声を限りに叫ぶも屋敷の中は静まりかえって、返事が返ってくる気配はない。
「やべえ! こりゃ、やべえぞ!」
そう一人呟きながら、イルはしきりに爪を噛んでいる。その姿に、普段やる気のかけらも見せないこの少年が、人のことを心配して焦っているという事実に、リムリムは少し意外な気がした。
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