第1話 衛士見習いの少年

「お兄ちゃん! お兄ちゃんってば! 起きなくて大丈夫なの?」


「うぅん、も、もうちょっと……」


 未だに夢見心地のふわふわとした声音。剥ぎ取られた毛布を探すように指先が宙を掻いた。


 盛大に寝ぐせのついたくすんだ金髪。うっすらと開いたまぶたの奥の瞳は濁ったような青。ベッドの上で身を捩っているそれは、見ようによっては可愛らしいともいえなくもない小柄な少年である。


 一方、それを呆れ顔で見下ろす妹の方はというと、年の頃は十四か十五。緩やかにウェーブを描く肩までの黒髪に黒い瞳。いかにもしっかり者らしい雰囲気をまとった少女であった。


「ダメだってば! もう朝八つを過ぎてるのよっ!」


「やっつ? やっ……って! ……ええっ! うわぁああ、ヤべぇ、おやっさんにドヤされちまう!」


 晩春の日差し温かな日、花散る空。水もぬるみ始める朝方のことである。


 少年の焦りと絶望の入り混じった声が部屋の窓から衛士長屋に響き渡り、いつも通りに素っ頓狂なその声が上がったことに、井戸の周りに集まっていた奥方衆はクスリと笑みを零した。


 少年の名はイル。この春から東の城門の詰所に配属された衛士見習いである。


「ニーシャ、なんでもっと早く起こしてくれねぇんだよ!」


「起こしたわよ! お兄ちゃんが起きなかっただけだってば。いつもの事じゃない」


 少年は妹の視線を気にする余裕もなく寝間着のズボンを脱ぎ捨て、妹は慌てて恥らうように背を向ける。


「ちょ、ちょっと、お兄ちゃん!」


「うっせぇ! それどころじゃねぇんだってば!」


 そう、これはいつものこと。この衛士長屋に住まう者なら、このしっかり者の妹と出来の悪い兄のことを知らない者はいない。


「イル……アンタまた遅刻かい。まったく父さんが生きていたら泣いてるわよ」


 ニーシャの背後、隣の部屋から母親が顔を覗かせる。そもそもたった二部屋しかない狭い長屋住まいだ。わざわざ「遅刻かい?」などと尋ねなくとも、母親にだって状況は良く分かっている。言うなれば枕詞まくらことばみたいなものだ。


「母さん、それは言わないでおくれよ」


 少年はきまりが悪そうに頭を掻く。慌てて着替えたせいで、軍装のボタンが互い違いに止められて奇妙な引きつり方をしている。妹はそれに気が付くと、呆れつつもなぜか少し嬉しそうに、兄の正面にひざまずいて、いそいそとボタンを止め直した。


「ほんとにもう、お兄ちゃんってば、だらしないんだから」


「おう、すまねぇな。じゃあ、行ってくらあ!」


 言うなり勢いよく飛び出して行く少年の背を見送りながら、母親は誰に聞かせる訳でもなく溜息を吐く。


「まったく誰に似たんだろうね、あの子は」


 母親のその呟きに、どういうわけか、妹が不思議な物を見るような目をした。


「そりゃぁ……お父さんやお母さんじゃないのは確かだよね」


「ニーシャ、それは言わないで」


 途端に不機嫌になる母親。しかし、彼女の娘はその口を閉じることをしない。


「いいじゃない今さら。お兄ちゃんは拾われ子、本人だって知ってるし、お父さんはいつも言ってたじゃない。お兄ちゃんと私で一緒になって、いつか本当の家族になれば良いんだって」


「お父さんはそう言ってたけど、あんたがそれに従う必要はないのよ。あの子はたぶん出世だって見込めないんだから」


 母親のその一言に、彼女は少しムッとして口を尖らせる。


「血が繋がって無いとはいえ、そこまで言っちゃうの? ボンクラなのは認めるしかないけど。でもまあ、お兄ちゃん以外っていうのはもう無理かな。今の今までお兄ちゃんと一緒になる。そうとしか考えたこと無かったからね」


「まったく、お父さんったら、余計なこと言ってくれたもんだわ……」


 思わず吐いた母親の溜息は、開いた窓から吹き込む風に攫われて、舞い散る桃色の花弁とともに空に吸い込まれていった。

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