第4話

 偶然とは、思いがけず外部から訪れるものばかりとは限らない。偶然のなかには、自らが呼び込むものもあるのではないか。

 そのときの私は、偶然を我が身に引きつけることができたのに違いない。

 私がいるのとは反対側の歩道に、橋の階段を背にして立っている男が見えた。思わず私は立ち止まった。

 脚が動くことを拒否していた。それ以上先へ進めなかった。

 赤いカルマンギアの男――私に気づいた様子はなかった。しかし男は、私にも感じられるほどの緊張感を全身から発していた。あるいはそれ「殺気」と呼ぶのかもしれなかった。長身を季節外れの丈の長いコートで包み、じっと通りの向かい――ちょうど私の正面前方――に顔を向けていた。サングラスが男の両眼を隠していたが、そちらを凝視していることはわかった。男の視線を眼で追った。

 と同時に、鋭い声が飛んだ。

「それ以上近づくな!」

 私をにらみつける城戸きど真澄ますみの表情は、尋常ではない険しさと厳しさに張りつめていた。彼のこんな表情を、私はかつて一度も見たことがなかった。

「……城戸!」

 私は気圧けおされながらも、前方にいる城戸のほうへ一歩踏み出した。

「近づくなと言った! あと一歩でも来てみろ。ただじゃすまねえ」

 その言葉は、単なる威嚇以上の凄みを秘めていた。

 それでも私は、城戸へ歩み寄っていた。歩み寄らずにはいられなかった。

「城戸、いったい何をしようと――」

「忘れろと言ったはずだ」

 城戸の眼がいっそう鋭くなった。その視線に耐えられず、私は思わず眼をそらして道路の反対側にいる男を見やった。男は、私の存在そのものにいささかの興味も抱いていないのか、先程とまったく同じ姿勢で城戸を凝視していた。

 城戸と男のあいだの車道を、大型トレーラーが通過していった。

 その轟音と振動が治まると、以前にも増した静寂が鼓膜を圧迫した。

 私たちはしばし、誰も口を開かなかった。私は城戸を見つめ、城戸は男をにらみ、男は城戸を見返していた。

「馬鹿だったよ。俺が、馬鹿だった」

 通りの向かいの男に眼を向けたまま、城戸はつぶやくように言った。

「その台詞せりふは、城戸らしくないな」

 私は明るさを装った。

「おまえを巻き込みたくはなかった。まさか、ここまで追いかけてくるとは思わなかったよ。が、元はと言えば、くだらねえ感傷に負けて、おまえに電話なんかしちまった俺のせいだ」

 男は動かなかった。まるで蝋人形のように微動だにせず、城戸を見続けていた。男の耳にも城戸の声は届いているのか。

 何かを振り切るように、城戸が顔を上げた。そして、私の顔をじっと見た。城戸が私を直視したのはこれがはじめてだった。

「見届けてくれ」

 城戸は低い声で、しかしはっきりと私に向かって言った。それは一種の命令であり、宣告のようだった。

「何を……?」

 私の問いはむなしく宙に消えた。

 城戸はしわだらけの戦闘服様ジャケットの裾をまくり、その下に手を突っ込んだ。通りの向こうに眼を向けると、男もまた同様に、コートの下に手を入れていた。

 二人はほぼ同時に手を出した。二人の手には、ともに黒光りする物体が握られていた。私は眼を疑った。

 城戸は慣れた動作で右手の黒い金属の塊からシリンダを出し、そのなかに収まっているものを確認した。それから城戸は表情も変えず、器用にシリンダを片手で回転させ、手首のスナップで黒色の塊本体に戻した。

 かちゃり、という金属音が聞こえた。決して大きくはないその音に、私は身を縮めた。

 城戸はもう私を見ようとはしなかった。ただじっと通りの向かいの男を凝視していた。男もまた黒色の塊を手に下げ、じっと城戸を見返している。

 二人とも動かなかった。

 私も、身動きすることができずにいた。我々三人のいる一帯の空気が、いつしか剃刀かみそりと化していた。うかつに動けば、容易に切り裂かれる。

 これほどの緊迫した空気を、私はかつて呼吸したことがなかった。強いて思い起こすなら、高校時代、弓道の的前に立ったときの緊張感に近かった。

 弓をいっぱいに引き絞り、的を狙う。眼は半眼になり、呼吸は浅くなる。矢を放つのではない。矢が放れるのだ。その期が熟すまで、弓を引き絞った姿勢のまま――いや、永遠に引き絞りながら、精神を限りなく無の状態にする。それを弓道の言葉で「かい」といった。

 今、私の眼の前にいる城戸と男は、まさに「会」の状態にあった。しかし、今私たちを取り囲んでいるこの緊張感は、高校生だった私たちが弓道場で体験していた「会」とは比べるべくもなかった。

 ここには、生と死のせめぎあいがあった。その微妙な均衡が、頂点を越えて炸裂する時期を待っている。

 車道を通る車はなかった。仮にあったとしても、このすさまじく張りつめた空気を引き裂くことなどできないだろう。

 そのとき、聞こえた。

 風に乗ったその旋律が、私たち三人のあいだに漂った。冷たく、硬く、鋭く研ぎ澄まされた空気分子の間隙を抜けて突き進んできたものがあった。その旋律はあまりにも軟らかく、あまりにも静かに私の鼓膜を揺るがした。

 ――とおりゃんせ、とおりゃんせ。ここはどこの細道じゃ。

 動いた。

 どちらが先、というわけではない。城戸と男は、まるで互いに合図でもしあったかのように、背後の歩道橋のほうを振り返った。

 ――天神様の細道じゃ……

 二人が同時に階段を駆け上がった。その動きは獲物を追う肉食獣の敏捷さを思わせた。車道を挟んだ二人の姿はあまりに似ていた。一方が一方の鏡像のようだ。そうなのだ。二人は、ある意味で同じ一種の人間だった。

 ――ちょっと通してくだしゃんせ。ご用のないもの通しゃせぬ

 階段を上りきるのも、二人同時だった。そのとき、歩道橋の左右の端で二つの体が沈んだ。その体は手すりに隠れ、一瞬見えなくなった。二体の獣が、敵に襲いかかるべく身構えたのだ。ちょうどネコ科の肉食獣が背中を丸め、今まさに相手に飛びかからんとするように。しかし狙うべき相手は草食動物ではなかった。自らと同じ獰猛な獣なのだ。

 ――この子の七つのお祝いに……

 歩道橋の手すり越しに、滑るように接近する二つの体が見えた。双方とも、片手を前にかざしている。

 近づく。

 限界まで近づく。そんな二人を、私は立ち尽くして見守ることしかできなかった。さらに二人は近づく。

 ――お札を納めに参ります……

 二発の銃声は、ほとんど同時に起こった。

 がくん、と沈み込んだのは城戸だった。私はあえいだ。私の体に銃弾が撃ち込まれたかのごとく。胸の奥に痛みすら感じた。

 しかし城戸は倒れなかった。体を低くし、さらに男に近づいていた。

 その直後、二人の体は重なった。しかし彼らは互いに触れあうことはなかった。次の瞬間、二人はたいを入れ替えた――互いの面を打ち合った剣士のように。二つの体が離れた。男はいっぱいに腕を伸ばした。城戸を狙った。城戸の動きが遅れた。

 ――行きはよいよい……

 しかし男の体勢も整ってはいなかった。腕が揺れた。そのすきに、城戸も構えた。ジャケットの裾がひるがえった。

 ――帰りは……

 そこで、かき消すようにメロディが消えた。

 駆け出したいという衝動を必死にこらえた。が、歩道橋上の城戸のそばに駆け上がりたいのか、それとも背を向けて逃げ出したいのか、自分でもわかっていなかった。どちらも許さないほどの殺気が、私を凍り付かせていた。

 二度目の銃声。やや遅れてさらにもう一発。

 先に撃ったのは男だった。しかし二つの体が揺らぐのは同時だった。揺らぎながらも、城戸が一歩踏み出した。男の体がふらふらと後ずさった。

 そして城戸が撃った。

 男の体がのけぞった。何かに突き飛ばされるように、男の上体が大きく後ろにしなった。

 さらに撃つ。男は引きずられるように、そのまま後ずさった。城戸は腕をまっすぐに伸ばし、さらに前へ踏み出した。

 そして、撃つ。

 男がまた、がくん、と体をのけぞらせた。いつしか男は、歩道橋の端へ追いつめられていた。城戸の足どりはしっかりとしていた。

 男の動きが止まった。もう後ろはなかった。男が顔を上げた。口を開いたように見えた。声は聞こえなかった。あるいは何かを城戸に向けて言ったのかもしれない。それを聞くことのできたのは、城戸だけだった。

 階段の直前で、かろうじてバランスを保って立っている男の前に、城戸が近づいた。男の顔つきは変わらなかった。能面のような無機的な表情で、迫る城戸を見つめていた。城戸は揺るぎない足どりで前進し続けた。

 城戸が立ち止まったとき、城戸の伸ばした腕の先は、男の体に触れんばかりになっていた。

 しばしの静寂。城戸は動かなかった。男も微動だにしなかった。私も歩道橋の下で、二人を見上げるだけだった。

 男がゆっくりと首を動かし、その右手を――そしてそこに握られた凶器を見た。まるで、そこに自分の手があることを、今思い出したかのように。

 男が城戸に向き直った。二人は、またにらみ合った。あまりにもよく似通った二人が。

 見届けてくれ、と城戸は言った。

 私は充分に見届けた。城戸と男の生死をかけた対決を、決闘を、私は見届けたのだ。城戸が勝利するのを、私は見届けた。

「城戸――」

 呼びかけようとしたまさにそのときだった。

 男が動いた。城戸は私のほうを向きかけていた。反応が遅れた。男は腕を伸ばした。漆黒の塊を握った腕を。

 私は眼を閉じていた。

 しかし、銃声だけは否応なく私の耳に飛び込んできた。それを聞かずにすますことはできなかった。


 銃声の残響が頭から去っても、私はすぐに眼を開くことができなかった。最初に眼に飛び込んでくる光景を恐れた。

 祈るような気持ちで眼を開いた。

 眼の前の歩道橋のたもとに、それがあった。覚悟を決め、ゆっくりと歩み寄った。

 赤いカルマンギアの男は、死んでいた。

 歩道橋の上から階段を転がり落ちてきたにも関わらず、男のサングラスははずれずに、いまだにその表情を隠していた。ふと、サングラスを取り去ってみたい、という気持ちが頭をよぎった。が、よぎっただけだった。

 屍体から無理に眼を引き離し、顔を上げた。階段の上から、城戸が私を見下ろしていた。私は屍体をまたぎ、階段を駆け上がった。と同時に、城戸が身をひるがえした。

 歩道橋の上に着くと、城戸が反対側の階段に向かうところだった。

「待ってくれ!」

 私は怒鳴った。それは必死の叫びだった。

 城戸は立ち止まった。私に背を向けたまま、階段への一歩を踏み出せずにいた。が、私を振り返ろうとはしなかった。

 私はその背中に言った。

「城戸……あの男は……」

 城戸は答えなかった。ただ背中で私の問いを受けとめただけだった。城戸へ向かって一歩近づこうとしたとき、いきなり彼は振り返った。

 腕をまっすぐに私に向けて。手に握られた黒光りする塊は、あやまたず私の体の中心を狙っていた。

「それ以上近づくな! 一歩でも近づいたら撃つ」

 城戸の眼は、その言葉が本気であることを物語っていた。かつて高校時代に、的を狙って弓を引き絞ったときの眼、「会」の状態の眼にほかならなかった。

「馬鹿なことは……やめろよ」

 私は声が震えないよう努力しながら、精一杯の虚勢を張った。

「これが、今の俺なんだ」

 城戸は、何かを吐き捨てるように言った。苦痛に満ちた声だった。まるで城戸が吐き捨てようとしたものが、彼自身の体の一部であるかのように。

「城戸……この十年のあいだに何があったんだ?」

「俺は城戸じゃねえ。城戸はくたばりやがった。俺が殺した」

 城戸は喉の奥から声を絞り出した。

「もういいじゃないか。僕にだけは教えてくれよ、ほんとうのことを」

 彼はやや口調をやわらげた。

「おまえを巻き込んじまったことは、すまなく思ってる。けれどな、おまえは決して俺たちの同類にはなれねえし、なっちゃいけねえ。俺たちが歩く道が全然違う。おまえの道と、俺の道が交わるなんてことがあっちゃいけなかったんだ」

「でも、交わったんだ。あの日の夕方、あの公園で」

「そのときに、すぐに消えるべきだった……」

 城戸は静かに独り言のように言った。

「城戸、僕は……」

 震える私の思いを乱暴になぎ払うように、城戸は私をにらみつけた。

「何も言うな。俺たちは、野犬みたいなもんだ。誰にも尻尾を振らねえし、誰にも飼われねえ。その代わり、石もて逐われることもある。薄汚え野犬は、野犬だけの道を歩くもんだ。おまえらの進むきれいな道を歩くわけにはいかねえんだよ」

「きれいな道……?」

「おまえにはわかるはずだと思うけどな、牧」

 城戸がはじめて口にした私の名に引き寄せられるように、私は彼のほうへ足を踏み出していた。

 しかし、城戸の声が飛んだ。

「来るな! 俺に撃たせるなよ」

 照準は間違いなく私の胸に定められていた。まっすぐに伸びた腕は微動だにせず、表情は石像のように冷静だった。たとえ標的が私であろうと、城戸が決して狙いをはずさないことは、私にはわかった。

「待てよ、もう弾切れなんじゃないのか?」

 私は、精一杯に強がってみせた。

「試してみるか?」

 城戸の声は冷ややかだった。

「……やめとくよ」

「賢い選択だ」

 城戸はゆっくりと腕を下げた。

 もはやこれ以上、城戸に近づけないことがわかった。私と城戸は今、同じ橋の上に立っている。しかし実は、決して渡れない激流の両岸で向かいあっているのだった。

 それでも、言葉なら対岸の城戸に届かせることができた。

「城戸、行くなとは言わない。けれど、教えてくれよ。おまえは、これからどうするんだ?」

「野犬狩りにあわねえようにするさ」

 はじめて城戸の顔に、笑みのようなものが浮かんだ。城戸は戦闘服の袖をまくり、腕にはめたミリタリー・ウォッチを見た。

「今から走りゃ、間にあうぞ。二日連続で遅刻ってのもまずいだろう。行けよ。おまえの生徒たちが待ってるんだろ?」

 そう言うや否や、城戸はきびすを返した。

 彼の背中に向かって、私は声の限りに叫んでいた。

「城戸!」

 城戸は動きを止めた。私に背中を向けたまま、半分だけ顔をこちらに向けた。

 しばしの間があった。私は唾を飲み込み、息を吸い込んだ。城戸の背中をじっと見た。これが、城戸真澄という男と話す最後の機会だとわかったから。

「……死ぬなよ」

 それだけしか言えなかった。自分自身で、馬鹿げた台詞だ、と思った。

「努力する」

 城戸は静かに、しかし力を込めて答えた。

 それが、最後だった。

 城戸はそのまま階段を駆け下りていった。その姿は私の視界から消えた。思わず、私も走り出していた。城戸とは反対側の階段に向かった。

 階段を一歩下りたところで、私は唖然として立ち止まった。

 男の屍体が消えていた。その痕跡すらなかった。

 その代わりに二人連れの男子高校生が、馬鹿笑いをしながら階段を上がってくるところだった。

 衝撃を振り払い、男子高校生の脇をすり抜けて下に降りた。

 車道ではいつの間にか自家用車やバスが騒音をたてて行き交い、歩道にも多くの通行人の姿があった。幾人かは、立ち尽くす私に怪訝けげんそうな視線を向けた。

 城戸の姿はどこにもなかった。朝の雑踏のなかに、彼は消えていた。

 歩道橋を見上げた。すさまじい対決のあった橋を。今、その上を男子高校生と、若いOLと、中年のサラリーマンが渡っている。彼らの新しい一日を始めるために。

 いつもと変わらない、ごくふつうの金曜日の朝の光景がそこにはあった。


 城戸真澄から最後に葉書が届いたのは、大学二年の冬、年末も押し迫ったころだった。葉書の裏にはイラストが描かれていた。歩いている男の後ろ姿を描いた線画だった。しかしそれはいつもの城戸のタッチとは違い、柔らかく繊細な曲線ではなく、力強さ、あるいは堅さ、あるいは荒々しさすら感じさせる直線で構成されていた。

 背を向けて歩く男の絵の脇に、城戸はただ一言しか言葉を書かなかった。「探してくる」と。それが城戸の私へのメッセージだったのか、イラストのタイトルだったのか、それとも一遍の詩のようなものだったのか、受け取った私は理解に苦しんだ。しかし「探してくる」の一言がいつまでも私の胸に刻み込まれたことは確かだ。

 その葉書を最後に、城戸真澄は大学を去り、私の前から姿を消した。そして、十数年がたった。

 城戸真澄はそんな男だった。


 金曜をどう過ごしたのか、よく覚えていない。生徒に笑われた記憶はないし、宮本華子先生や学年主任に叱責されたり、木全先生にからかわれた覚えもないので、なんとかつつがなく一日を終えたのだろう。

 その週末は、家に閉じこもって過ごした。

 狐につままれた、という感覚を私ははじめて体験した。

 この世の中では、金曜の早朝に緑地公園前の歩道橋では何ごとも起こらなかったことになっていた。新聞でもテレビのニュースでも、インターネットでも、それに類する報道は一切なかった。

 そのうちに私も、迷うようになった。

 私はあのとき、とてつもない夢を見ていたのではないか。私はそう感じ始めた。そう思おうとした。

 週が明けた月曜、早めに家を出た。電車を二駅先まで乗り、緑地公園前の歩道橋へ向かった。しかし、そこで何も得ることはできなかった。それは、多くの人々の通勤、通学路となっている橋に過ぎなかった。

 公園の土管もまた、一週間前と同じ姿に戻っていた。そこに城戸の姿はなかった。ショッピング・バッグもなかった。ラッキー・ストライクの吸殻も見つけることはできなかった。

 それから勇気を奮い起こし、向かいのマンションへ足を向けた。入り口付近ではさすがに緊張を覚えたが、意を決して駐車場へ向かった。赤いカルマンギアはなかった。五階まで上がって調べてみたかったが、そうせずに肩を落として帰宅した。


 月曜


 一時間目。1年B組の化学の授業。

 月曜の一時間目というのは、やりにくい授業の一つだ。一週間のなかでも遅刻する生徒がもっとも多い。始業後にドアを開けて生徒に入ってこられれば集中力をそがれる。もっとも、私ごときに遅刻する生徒を責める資格はないのかもしれないが。

 一週間が始まってしまったという憂鬱感を抱きながら職員室を出て、重い足取りで1年B組の教室に向かった。

 珍しく廊下に出ている生徒はいなかった。いつもなら、ズボンやスカートが汚れるのも構わずに、廊下にぺたんと腰を下ろして駄弁っている生徒が、必ず数人はいるのだが。今日は教室内もかなり静かなようだった。

 ドアを開いた。

 その途端、どっと大きな笑い声が上がった。

 私は狼狽しつつ、教室を見回した。

「うちらが描いたんじゃないからね、先生」

 教室の後ろから声が上がった。声を発したのは前田まえだ香奈子かなこだった。彼女はにやにやと笑いながら私を見ていた。いや、彼女だけではない。B組の生徒全員が、何かを期待しているような曰くありげな視線を私に向けていた。

「えーと、朝からずいぶん楽しそうだけれど……」

 私は戸惑いながら言った。

「朝、うちらが来たときには、もう描いてあったんだよ」

「え?」

浦辺うらべさんがそれ消そうとしたけど、みんなでやめさせたんだよ」

 男子生徒の声がした。私は、頭のなかにいくつものクェスチョンマークを浮かべながら、黒板を振り向いた。

 チョークで描かれた流れるような線画――数えるほどの曲線がからみあい、そこに男の姿を形作っていた。極度に戯画化された二頭身の男。やせていて、やや骨ばった顔つき。髪はぼさぼさ。どこかで見たことのある顔。

 間違いない、これは、私だった。片眼と口を大きく開いて、びっくりした表情を見せている。なぜなら、黒板のなかの私の尻に、二頭身の野犬がガブリと噛みついているから。

 ――Bye Bye 牧センセ 愛を込めて Kid

 そうサインがあった。久しぶりに見る筆跡だった。

 私はきっと、絵のなかの私に劣らず大きく眼と口を開いて、黒板を見つめていたに違いない。

「キッド、か……」

 私はつぶやいていた。

「先生、キッドって誰?」

「女だよなぁ、たぶん。おいおい、誰だ、こんなとこで告ってるやつ」

「告白じゃないよ、バイバイっていうんだもん。先生、フラれたんだよ。先生フッたの誰? 白状しちゃいなさいよ」

「俺じゃねえよ」

 一斉にクラスのなかが騒々しくなった。

 まったく、困ったことをしてくれる奴だ、と思った。野犬は、見事に私の尻に噛みついてくれた。

「なんか先生、めっちゃうれしそうじゃん、フラれたにしては」

 前田香奈子にそう指摘されても、私は口元が緩むのを抑えることができなかった。

 私はできるだけ平静を装い、出席簿と教科書を抱えると、机のあいだを通って教室の後ろへ進んだ。そんな私を、生徒たちが怪訝けげんそうに見つめていた。

「みんな、悪いけれど、今日はこっちの黒板で授業をやりましょう。机の向きを変えてくれるかな。あのイラストは、この授業のあいだは消さないでおきます」

 意外なほど素直に、生徒たちは私の言うとおりに机と椅子の向きを後ろに向けた。

 机と椅子を動かす騒音が収まると、こちらが気後れするくらいに教室が静かになった。

 彼らを見渡した。三十余ついの眼が、私に向けられていた。眠っている者も、枝毛を抜いている者も、机に彫刻している者も、スマートフォンの画面を連打している者もいない。

 全員が、私を見ていた。

 私は、一度息を大きく吸った。そして、私の生徒たちに向かって言った。

「はい、授業始めます」

 少しの間があった。おやと思うのとほぼ同時に、教室の後ろのドア――私のすぐ横のドアが開いた。

 現れたのは、鞄を胸の前に抱えて息を弾ませた委員長の瀬田せたみすずだった。彼女はつんのめるようにして立ち止まり、きょとんとした表情で前後逆転して変わり果てた教室を見回した。

「あ、あれ……?」

「珍しく遅刻者がいないと思ったのになあ。さ、早く席に着いて。間違えないようにね」

 私は笑いながら言って、出席簿にチェックを入れた。瀬田は、まだきょろよろと教室を眺めていた。

「え、はあ……えっと……起立!」

 爆笑と同時に、生徒たちが立ち上がった。

 そして、私の一日が始まる。


「野犬の道」完

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野犬の道 美尾籠ロウ @meiteido

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