第3話
足音に振り返った。
いつの間にか廊下の向こう、エレベーターの前に立っているのは、黒っぽいスーツを着た長身の男だった。私と男は一瞬にらみ合った。いや、正確にはにらみ合ったかどうかはわからない。男はサングラスをかけていたから。
私の体は凍りついていた。頭のなかも、一瞬空白になった。とっさにどうすべきか判断ができない。
男は足早に、滑るようにこちらに近づいてきた。まっすぐ顔を私に向けたまま。
本能的に、私には理解していた。この男こそが、
私は焦った。焦るだけで、思考はただ空回りした。
思わず、廊下の反対側を見た。そちらを振り返るという行為そのものが、私の立場を悪くするだろうことに、そのときは思い至らなかった。
反対側は、無情にも行き止まりで何もなかった。正確には、504号室の住人のものらしい、子ども用の自転車が壁の前に置かれていたが。
男が近づいていた。心なしか、男の歩調が早くなっているようだった。否応なく口中が乾いていった。唾を飲み下す。男の両の拳は握られていた。力が込められているらしく、その拳は小刻みに震えていた。男の姿がみるみる大きくなっていく。
私は、最悪の方法を採った――走り出したのだ。
鞄を楯のように体の前に持ち、全力で狭い廊下を駆け出した。私が体当たりすると思ったのか、男の動きが一瞬だけ鈍った。その隙に私は男の脇を駆け抜けた。廊下の手すりに体がぶつかりそうになる。しかし走る速度は変えずに、私は一気にエレベーターへと向かった。
振り返る余裕はなかった。男の足音。背後に迫っている。エレベーターは、幸いにも男が乗ってきたあと五階に止まったままだった。下向きの矢印のボタンを押す。ドアが開くと同時に飛び込んだ。一瞬、自らを袋のネズミにしてしまったのではないか、という思いがよぎった。が、それ以上思考する余裕はなかった。
「閉」のボタンと「1」のボタンを同時に叩くように押した。ドアが閉じる。いきなりまたドアが開かないことを祈った。
開かなかった。エレベーターは下降を始めた。それと同時に、安堵の息がもれた。が、まだ安心はできない。このエレベーターの速度はどのくらいだろう。男が階段を駆け下りるのと、どちらが早いのか。
上ってきたときとは違って、一階まで下りるのには何十倍もの時間がかかったような気がした。じりじりと焦りを噛みしめながら、階数の表示を凝視した。いまいましいほど、数字が減っていくのが遅い。
ようやく「1」の数字が点灯し、ドアが開いた。我知らず、奥歯を噛みしめる。眼の前に男が立っていることを恐れた。
誰もいなかった。
エレベーターの箱から一気に飛び出した。エントランスに出たところで、背後を振り返った。
そうすべきではなかった。男が階段から外へ飛び出してくるところが眼に入った。サングラスが男の表情を隠していたが、その敏捷さは尋常ではなかった。振り返ったことで、私と男の距離は急激に縮まった。
マンションの外に向かって駆け出した。脚がもつれる。手に持った鞄が邪魔だった。が、投げ捨てるわけにもいかない。
男は声を発しなかった。
何の前触れもなく、背後から腕が私の首に巻き付いた。それ自体が一つの生き物でもあるかのように。うめく余裕すら与えられなかった。邪悪なほど激しい力で引きずられた。男の腕が喉に食い込む。助けを求めようにも、声が出せなかった。なすすべもなく後ろに引っ張られていく。
私はふたたびエレベーター・ホールに引き込まれた。必死に鞄を背後の男にぶつけうようとした。腕を振り回す。脚をばたつかせ、男を蹴った。しかし、いかほどのダメージも与えられなかった。
男の腕が締まっていく。脳への血管が圧迫される。顔面から血の気が引いていくのを感じた。男は獰猛な腕の力をますます強くした。ぎりぎりと首の骨がきしんだ。気管がつぶれていく。必死にあえいだ。空気は入ってこない。金属的な耳鳴りが、警報のように脳内で響く。
視界がチラチラとかすんでいく。確かに眼を開けているはずなのに、どんどん像が不鮮明になっていった。
が、ぼんやりと見えた視界のなか、エレベーターの向かいの壁に見えた四角い物体のようなものは、非常ベルに違いなかった。
私は、なけなしの力で男の脚を蹴飛ばした。無駄とは知りつつ、鞄で後ろの男の胴体を殴りつける。
必死に、壁のほうへ体を伸ばした。男はますます腕に力を込めた。もはや呼吸はできなかった。壁の非常ベルの箱の像がぼけていく。色彩が失われる。手を伸ばした――つもりだった。非常ベルはどんどん遠ざかっていく。右手に持った鞄を振り回す。届かなかった。もはや非常ベルはおろか、エレベーター・ホールそのものが視界から――私の意識から遠ざかっていくようだ。見えない非常ベルに向かって、もう一度鞄を振り回す。手応えはない。いや、あったのかもしれないが、何も感じなかった。手だけではない。全身の感覚が失われていた。がくん、と膝が折れるのを感じた。体が沈む。しかし首に巻き付いた腕は緩まなかった。
はじめて死を意識した。
死は、明確に実体感のある、手で触れられそうなものとして、私のすぐ眼の前に――いや、すぐ背後にあった。
そのとき、灰色の視界のなかを何かがよぎった。
茶色い塊――野犬のような生き物が飛び込んできたようにも見えた。
それ以上、何もわからなかった。
わずかに感じたのは、男の腕の力が緩んだということだけだった。
私はそのままうつ伏せに倒れ込んだ。側頭部が床に激突した。激痛と火花。が、感じたのはそこまでだった。私の感覚器官はそこで活動を停止した。
生まれてはじめて、私は気を失った。
眼を覚ますと、そこはやはりエレベーターホールだった。
気を失っていたのは長い時間ではないらしかった。ほんの数分だけだったのかもしれない。
静かだった。聞こえるのは、規則正しい私の呼吸の音だけだった。
そう、私は呼吸している。
呼吸が安定しているというのはすなわち、私は死ななかったということだ。体のダメージもさほど大きくないということだ。
そういう自分の判断に力づけられた。両手をそろそろと動かして床についた。
そのとき、もしかしたら男が私をじっと見ているのではないか、という想像にとらわれた。自分の獲物の苦しむ様子を、男は冷ややかに楽しみながら見下ろしているのではないか。
見える範囲内に、人の姿はなかった。耳をすます。やはり、私の息づかいしか聞こえなかった。起き上がり始めた。
肩から首にかけての筋肉が激しく痛んだ。がくがくと痙攣する。冷や汗がにじんだ。口の端から垂れたのは、血の混じった唾液だった。
それでも、なんとか立ち上がることができた。
エレベーターホールは無人だった。男の姿はない。入り口から見える外の道路には、薄暗い闇が降りつつあるようだった。
鞄を拾い、よろよろと外に出た。
額に冷たいものがかかった。雨だった。いつ頃から降り出したのだろう。冷たい雨だった。
雨のなか、歩き出した。少し行ったところで、マンションを見上げた。五階の男の部屋に明かりはなかった。マンション全体でも、明かりのついた部屋は少なかった。
男はどこへ行ったのか。なぜ、私をエレベーターホールに置き去りにしたのか。
野犬――
ほんとうに、あのとき何かがエレベーターホールに飛び込んできたのだろうか。死にかけた私が、薄れゆく意識のなかで見た幻覚ではなかったのか。
呼吸をするたびに、唾を飲み込むたびに、喉が痛んだ。
私はふらつきながら、マンションの駐車場へと回った。
赤いカルマンギアが眼に入ったとき、私は体が一気に凍り付くような感覚におそわれた。男は、この近くにいるのだ。マンションから立ち去ったわけではない。
野犬。
それはぼんやりとした視界のなかで、茶色い敏捷な塊に見えた。もしもそれが、人間であったら――
私は、駐車場から出て、小走りに雨のなかを公園に向かった。すぐに全身びっしょりと濡れそぼってしまった。雨の冷たさが皮膚に染み込む。喉の痛みのためと、体が冷えたためか、すぐに息切れがして苦しくなった。それでも私は雨を浴びつつ走った――公園へ向かって。
雨に打たれた三つの土管は、そのけばけばしさを減じて、灰色の空とさほどの違和感なく調和して鎮座していた。
城戸はいなかった。
突如として、体中がしびれるような疲労感が私の全身に襲いかかってきた。
土管の前から、マンションを振り返った。マンションに入る者も、出ていく者もいなかった。暗さを増していく空の下で、マンションはどこか不吉な存在に見えた。そこにはふつうの人々のふつうの日常があるはずなのに。まるで曇天の下に屹立する、巨大な墓標のようだった。
雨は降りやむ気配がない。
この雨の下のどこかに、城戸がいるのだ、と思った。
おまえはいったいどこをさまよい歩いているのか。
そしてまた赤いカルマンギアの男も、この雨の街にいる。
私は、雨の滴を垂らしながら駅に向かって足早に歩き出した。背後から誰かがまた首を腕を巻き付けてくるような恐怖が、どうしても去らなかった。何度も後ろを振り返りながら、早足で進んだ。
誰も襲っては来なかった。
私と
城戸真澄はそんな男だった。
金曜
冷え切った心と体を、いつもなら安ウィスキーが温めてくるはずだった。しかしその夜は、いくら酒精を流し込んでも、私は冷えたままだった。私の脳のどこかが、かたくなに酔うことを拒否しているようだった。そんな状態で、いつしか日付が変わった。
雨はひたすら単調に落ち続けていた。網戸の向こうから絶えず聞こえているその音が、ひどく不快でならなかった。
私はガラス窓を閉めた。外界と隔絶された自分だけの城を築くのだ。何も見ず、何も聞かず、何も感じずに、私は私の城のなかで眠ればいい。木曜という日を忘却し、新たな金曜という日を迎えればいい――いつものように。
誰がそれを非難できる?
それでも雨音は、狡猾に私の部屋のなかに忍び入ってきた。五感を鈍らせるため、私はウィスキーのグラスを重ねた。そのうちに、確かに聴覚は鈍くなっていった。しかしその代わりに、五感以外のべつの感覚が、逆に研ぎすまされていくようだった。
陰湿に入り込んでくる雨音が、私の心をじっとりと不快に湿らせた。にもかかわらず、心のべつの一部分はいまいましいほどに乾き切っている。
湿った部分が降り続く重たい雨を思わせ、乾いた部分が忘却を促す。そのせめぎあいのなかで、身勝手にも私の意識に眠りが降りていた。
夢を見た――内容は覚えていない。が、悪夢だということだけは覚えていた。
汗だくになって目覚めた。自分の心臓の音をしばし聞いていた。呼吸が震えているのがわかった。
窓を開けようと上半身だけ起き上がったときだった。鋭い電子音が静寂を引き裂いた。めったに鳴ることがない、家の固定電話だった。時計を見る――四時五十五分。すかさず飛び起きた。
確信があった。
受話器に手を伸ばした。ディスプレイの表示は「公衆電話」だった。
「もしもし」
半ば祈るような気持ちを抱きながら受話器に向かって言った。ほんのわずかの間があった。電話の向こう側で、少し息を飲み込む気配があったことを聞き取った。
「やっぱり……やっぱり、城戸なんだろう? 今、どこにいるんだ? どこからかけてる? 僕は昨日……」
わざわざ名乗る必要など、私と彼のあいだにはなかった。
「俺はもう消える。おまえには、世話になっちまった」
私の言葉を遮って彼は言った。
「いや、城戸……」
「煙草、ありがとうよ」
「それより、訊きたいことがあるんだよ。話したいことも、話しておかなきゃいけないことも、たくさんあるんだ。電話じゃなくて、もう一度直接会いたいよ! 今からだって、僕は――」
「無理だ」
その声は、何かを断ち切るかのように響いた。
「あんたは勘違いしてる。城戸なんて知らねえ」
私は、絶望的なほど情けない気分にとらわれた。
「どうしても、僕を信用してくれないのか? 確かに僕の態度はぶしつけで、思いやりがなかったかもしれないよ。身勝手で思い上がっていたかもしれない。だからと言って、そこまで自分を欺いてみせなきゃいけないのか?」
答えはなかった。しかし、受話器の向こうでは城戸がじっと私の言葉を反芻しているのがわかった。その背後から小さく音が聞こえてきた。その音はメロディを奏でていた。風に乗って流れてきているようだった。
「とおりゃんせ」――今ではたいへんに珍しくなったメロディ式の信号のようだった。もの悲しい旋律が静寂を割って途切れ途切れに聞こえてくる。その旋律の向こうに、私は確かに城戸真澄の呼吸を感じた。
「俺は、消える」
城戸は、ほとんど聞き取れないくらいに、ささやくような口調で言った。
「待ってくれ」
私は言った。その私の声もまた、自分のものとは思えないくらいにかすれ、まるで哀願するような響きを帯びていた。
城戸は待ってくれた。受話器は置かれなかった。
私は言葉を探しつつ言った。
「昨日、僕を助けてくれただろう。ほんとうは、その礼を言わなきゃいけなかった。ありがとう。命を救われた」
電話の向こうの城戸は、何も言わなかった。
「あの男は誰なんだ? なあ城戸、いったい、今のおまえはどういう世界に行ってしまったんだ?」
「やめろ!」
城戸の鋭い声が、私の耳に突き刺さった。
「忘れろ。おまえは誰にも会わなかった。何も見なかった。昨日までのことは全部忘れろ」
「城戸!」
「……城戸真澄はもう死んだ」
あまりにも感情のこもらない、冷ややかな声だった。
「そんな……!」
「おまえの知ってた城戸真澄って男は、もうこの世には生きちゃいねえ。何年も前にくたばりやがった。馬鹿な野郎だよ。おまえも、死人の影を追いかけるのはやめるこった」
「待てよ、城戸!」
今度こそ、電話は切れた。
私は空電音を発し続ける受話器を、ただ茫然と見続けていた。
何かがこみ上げてくるのがわかった。それは名状しがたい衝動のようなものだった。
私は、その衝動に身を任せた。立ち上がった。
着替えて部屋を飛び出した。
外はまだ薄暗い。雨は夜半過ぎに上がっていたようだ。濡れたアスファルトの上を駆けた。走り出してすぐ、部屋の鍵をかけ忘れたことに気づいた。が、戻る余裕はない――時間的にも、精神的にも。
そのまま走った。
――とおりゃんせ
手がかりはあまりに乏しい。
私の知る限り、城戸が電話をかけてきたと思しい場所は一ヶ所だけだった。
まだ夜も明けぬ街を、私は全力で駆けた。
JRの駅前には、少ないながらも行き交う車があった。ロータリーの真ん中にある時計を見ると、五時半になろうとしているところだった。
駅の構内に駆け込んだ。始発電車は出たばかりで、次の電車までには、まだ二十分あまりの時間がある。舌打ちして駅から出た。ロータリーの周囲を見回す。向こうの通りを一台のタクシーが通りかかった。私は手を振りながらそちらへ飛び出した。
私の剣幕に驚いたかのように、タクシーはタイヤに悲鳴を上げさせて停車した。怪訝そうな顔で見返す運転手は中年の女性だった。彼女に行き先と急いでいることを告げると、ますます怪訝そうな顔をした。しかし、私の要求は叶えてくれた。タクシーは、明け方の街を疾走した。
タクシーを降りてみて、やはり間違いではなかったか、と思い始めた。
そこは、ショッピング・センターや自動車のショールーム、紳士服店といった郊外型の店舗が並ぶ通りだった。
ごく当たり前の生活がある、ごく当たり前の街だった。そんな街角は、今の城戸真澄にふさわしくないように思えた。あまりにも日常的、あまりにも平凡、あまりにも安逸な、あまりにもふつうの、ありふれた街角だった。
こんな通りを見ながら、果たして自分が死んだことを友に告げられるだろうか?
そのときだった。
メロディが耳に飛び込んできた――「とおりゃんせ」だった。
周囲を見回す。信号。ショッピング・センターの駐車場のすぐ前の交差点に立っている。
城戸からの電話では、かなり小さな音で「とおりゃんせ」が聞こえていた。つまり、城戸が電話で話していたのは、この信号から少し離れた場所なのだ。
私は、公衆電話を探した。
電話がかかってきてから、もう一時間以上たっていた。日もじわじわと明るさを増し、街全体が本格的に目覚め、活動を開始しようとしていた。道路を走り去る車の数も、徐々に増えていた。もはや街は夜の闇を抜け、光の領域に踏み込んでいた。昇りつつある太陽の薄明かりが、私にはまぶしすぎるように思えた。
ようやく、一台の公衆電話を見つけた。シャッターの下りた酒屋の前、自動販売機の陰に隠れるように、それはひっそりとたたずんでいた。
私は受話器を上げてみた。だからといって、何がわかるというわけではなかったが。しかし私は、根拠もなく確信していた。この電話で、城戸は私に最後の言葉を語ったのだ。
最後の言葉――それの意味するところに気がつき、改めて驚きを感じた。
そうだ。あの電話は、ただの挨拶なんかではない。
城戸の遺言だったのだ。
城戸、おまえはもう私の手の届かないところへ去ってしまったのか――
思いを振り払い、公衆電話の受話器を叩きつけた。
どっちだ? 城戸は、この電話からどちらへ行ったのだ?
視界に飛び込んできたのは、橋だった。緩やかなアーチを描く橋が、向こうの道路上に朝日を背に、シルエットとなって見えた。歩道橋だった。ただの無味乾燥な歩道橋ではなかった。すぐ脇の緑地公園への連絡橋となっている、装飾の施された橋だった。
そのたもとに、人影があった――ように見えた。
私は、引きつけられるようにそちらへ向かった。我知らず、歩調が速くなっていく。しまいには、駆け出していた。
「野犬の道」第4話へつづく
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