漠然とした将来
ホコリを被っていた年季の入った照明を、のっぺりとしたLEDのシーリングライトに付け替える。
脚立を降りて、リモコンで照明をつけると、感心する声が上がった。
「ずいぶん、明るなったね」
「ええ。それに、リモコンで明るさも調節できるんですよ」
なまりのきついおばあさんに、リモコンの操作方法を簡単に説明する。やたら大げさに見える相槌を繰り返す彼女が、どこまで理解できているかわからない。取扱説明書を置いていくし、近所に息子家族も住んでいるらしいし、まぁ大丈夫だろう。
床に敷いたマットと脚立、それから梱包していた段ボール箱を車に押し込んで、請求書を片手に玄関に戻る。
「田中さん、支払いはいつもと同じでいいですね?」
田中さんは、いつもわざわざ店に支払いに来る。ほとんど社長の奥さんとお喋りするための口実なんじゃないかと思う。けど、それは言わなくてもいいだろう。近所に息子家族がいるとはいえ、旦那さんに先立たれた独居老人なのだから。
「そうしとくれ。はい、これ」
「ありがとうございます」
よく冷えた缶コーヒーを一つポケットに押しこんで、後はおいとまするだけだったのに、今日はタイミングがあわなかった。
「加賀美くん、まだ結婚しないのかね?」
「相手がいないですからね、田中さん」
愛想笑いは苦手だ。自分でも、白々しいほどの愛想笑いを浮かべているのが、わかる。
余計なお世話だと言えれば、どんなにスカッとするだろうか。
「加賀美くん、男前なのにねぇ。うちの息子なんかでもええ嫁さんもらえたんだで、あきらめたらいかん。出会い待ってるだけじゃ、いかんよ。えーっとコンカツ? もっと積極的にならんと」
「ですよね」
適当に相槌を打つが、なかなか切り上げられない。
さっき、これで今日の外回りの仕事は最後だと口を滑らせた自分を呪う。
こんな話題、俺が女だったらセクハラじゃないか。
右から左へ聞き流すけど、綺麗に頭の中を流れていってはくれない。心をささくれ立たせる田中さんの言葉の欠片が、残って溜まっていくのがわかる。
田中さんは、俺の事情なんかこれっぽっちも知らない。知る必要もない。
初めてのカノジョと、セックスに失敗したこと。しかも、そのカノジョだけじゃなかったこと。俺は結婚できないどころか、恋人もできない。そのくせ、初めてのカノジョに、いまだに未練がある。そんな事情、知られるわけにはいかない。
「田中さん、俺、そろそろ戻りますので……」
「ああ、ごめんな、ひきとめちゃって。あとで支払いに行くから、奥さんによろしくね」
「わかりました。よろしくお願いします」
頭を下げて背中を向けるまでが、愛想笑いの限界だった。
ため息をこらえていられたのは、車に乗りこむまでだった。
「俺、絶対、接客業は無理だな」
独り言は減らそうと努力しているのになかなか減らない。いただいた缶コーヒーは、すぐに空になる。
顔なじみのお得意様だから、ある程度は話を合わせられるが、どうしてもストレスになる。
「戻りますか」
車のエンジンをかけて、気分を無理やり切り替える。
今日は単純な作業ばかりだったから、一人で回ってきた。助手席に社長がいないから、静かだ。
街の電器屋。家電量販店に、ネットショッピングが便利な時代になっても、地道に生き残っている。田中さんのようなお得意様のおかげだ。
「戻りましたぁ」
店舗に戻ると、奥さんが店頭のテレビでワイドショーを楽しみながらお茶をすすっていた。
「おかえり」
太鼓腹の社長はまだ戻っていないようだ。
梱包材を片付けて、伝票を閉じたり、車の鍵をもどしたりしていると、壁に貼ってある夏祭りのポスターが目に止まった。
そういえば、まだミコトたちに話をしていなかった。
「ツカサくん、お茶飲みなさいよ」
「今行きますよ」
最近は、エアコンの交換や取り付け工事が多くて奥さんとゆっくりお茶をすることもなかった。
「田中さん、あとで支払いに来るそうです」
「やっぱり。あの人、話が長くなるからねぇ」
同じ話ばかりと笑いながら愚痴ると、奥さんの注意はすぐにワイドショーに戻ってしまった。
「そうそう。今日は、仕事終わったら帰っていいってさ」
「聞いてますよ」
忙しくないときは、いつもお茶して休憩してから帰ることになっている。
高校の先輩に声をかけられて、夏休みにバイトしたのが、この電器店だった。先輩は、社長と奥さんの一人息子だ。その先輩は、進学して大手家電メーカーに勤めている。
居心地がよかったから、ただそれだけで俺は高校卒業後に、この店で働かせてもらっている。
ミコトと別れたばかりで、少々自暴自棄になっていたのかもしれない。
ワイドショーでは、見覚えがある程度の芸能人の不祥事にさっきからずっと時間を割いている。他人事でしかないのに、なぜかぼんやり眺めてしまう。少なくとも、田中さんの話よりは耳を傾けてしまうのは、なぜだろう。気がついたら、内容よりも、そっちの疑問のほうを考えていた。
小柄な奥さんは、無理に俺に話しかけない。だから、別に話題の芸能人の情報を用意しておく必要もない。なにしろ、社長にちょっと無愛想だと言われるほどだ。
奥さんは還暦の六十歳だというのに、なんだか俺の母さんと同じくらいに見える。まぁ、母さんもあと二年もすれば還暦だし、実際同じくらいだ。十歳ごとの区切りに、意味なんかないんだろう。俺はまだ三回しか経験していない。二十歳のときは、成人式もあったせいか、大きな節目のような感じがしていた。だからか三十歳になる直前は、漠然とした焦りがあった。あの焦りはいったいなんだったんだろうか。
ワイドショーが終わって、ローカルニュースに切り替わるタイミングで、なんとなく席を立つ。
「じゃあ、俺はこれで失礼します」
「お疲れさま」
不思議と居心地がいい職場は、もうあと数年でなくなってしまう。
ふとした時に考えてしまうのは、その後のこと。
自家用車を持たないのも、節約生活しているのも、全部そのためだ。
今は年金をもらうまでと言っている。もう十年もない。もっとも、工業高校を卒業してこの店で働くときには、あと五年とかなんとか豪快に笑っていたし、あまりあてにならない。それでも、この先ずっと同じ仕事を続けられないことは確定している。
「本気で将来のこと考えないとなぁ」
もう三十四歳だ。
二十代の頃は、転職先なんて贅沢いわなければいくらでもあると、気楽に考えていた。いや、考えていなかったのか。体力にだって自信あった。独身のまま、なんとか生きていけると思ってた。
結局、俺は必要に迫られない限り、なかなか先のことまで考えられない人間なんだ。
アパートの駐輪場の柱に、蝉が止まっていた。
「蝉は元気でいいなぁ」
蝉の気持ちなんて知らないのに、つぶやいてしまった。まるで、俺の事情なんか知らないのに、セクハラめいたことを言っきた田中さんみたいじゃないか。情けないことに気がついたときには、二階に上がっていて、さっき見たばかりの蝉を正確に思い出せなくなっていた。
「何かが、変わるって思ったんだけどなぁ」
サヤちゃんを預かることで、何かが変わる予感がしたんだ。結局、予感のまま終わるんだろうか。
「ただいま」
「おかえりなさぁい」
おかえりの声が温かすぎて、嫌なことがほんの少しだけ忘れらた。
今夜は、二人を夏祭りに誘ってみよう。
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