七月の終わり

 明日からは八月。

 仕事帰りだけど、以前ほど疲れた足取りじゃない。肉体的には、同じくらいしっかり疲れているんだがな。たぶん、精神的なものだ。ここ最近、忙しかった。もういい加減、この忙しさも落ち着いてくれるといいんだが。

 雨上がりの夕暮れに、ずぶ濡れのサヤちゃんがうずくまっていた玄関先。明るいグレーのドアを、今日は西日が明るく上塗りしている。


「ただいま」


 家族ごっこを始める前は、ただいまなんて言わなかった。


「おかえりぃ」


 サヤちゃんの元気な声が出迎えてくれる。

 とはいえ、わざわざ玄関で待っていてくれるのは、初めてのことだ。ミコトがプレゼントした水色のシンプルなエプロンをしている。たぶん夕食を作ってくれていたんだろう。だが、なんでわざわざ玄関で待ちかまえていたんだろうか。

 なにかあったのかと首を傾げると、サヤちゃんはわざとらしくもじもじと体をよじる。


「おじさん、ご飯にする? お風呂? それとも……」


「サヤちゃん、やめなさい」


 それ以上は言わせない。強めの口調でさえぎる。

 上目遣いで目一杯色っぽくしようと振る舞っていたサヤちゃんは、たちまち頬を膨らませて口を尖らせた。


「えー。ミコトのときは、おじさんすごく慌てて面白かったのにぃ」


 ダイニングキッチンから、ミコトの笑い声が聞こえる。


「ミコトぉ!」


 こみ上げてきた羞恥心が、怒りに変わる。


「シシッ。怒るなよ、ツカサ」


 あいかわらず露出度の高いミコトは、肩をすくめる。二の腕にある天使のタトゥーにまで笑われた気分になる。


「あのな、言ったよな。サヤちゃんに変なこと教えるなって」


「変なこと?」


 明らかにわかってて、とぼけてやがる。

 いくらミコトが性に奔放で、男も女もイケるからって、サヤちゃんに手を出してはいない、はず。犯罪には手を染めることはしないと、はっきり言っていた。嘘じゃないことくらいわかっている。ミコトは、時間を持て余しているからといって、そんなことに刺激をもとめたりなんかしない……はずだ。だが、ふとミコトが女子高校生とそういう関係になっていたことを思い出してしまった。頭が痛くなってくる。


「ミコト、あとで話をしようか」


「オッケー」


 不安だが、先にとりあえず着替えよう。

 今日も体温より高温の炎天下で作業したせいで、よく汗をかいた。一応、帰る前に着替えたけど、自転車で帰ってくる間にまた汗をかいている。一日に何回着替えているのか、数えたら負けな気がする。まぁ、Tシャツなら、安いしそうかさばるものじゃない。毎年の夏恒例のことだと思えばいい。

 にしても、寝室にはベッドとハンガーラックと、サイドテーブル代わりの小さな折りたたみテーブルと、細々したものしかなかった。今ではウサギのぬいぐるみや、サヤちゃんの服が入った衣装ケース、その他いろいろと、つい半月ほど前の寝室の姿が思い出せなくなりそうだ。まぁ、別に元の姿に戻す必要もないんだが。

 着替えてから、洗濯物を洗濯機に放りこみに、ダイニングキッチンを横切るときには、二人で今日の夕食の盛り付けをしていた。その内容に、思わず顔をしかめてしまった。そして、実際、席につくときにげんなりした声を上げてしまった。


「また、ゴーヤかぁ」


「また、おじさんが文句言ってるぅ」


 ミコトにも聞こえているとわかっているのに、サヤちゃんは口を尖らせる。

 一昨日は、ゴーヤチャンプルー。昨日は、ゴーヤ餃子。で、今日はゴーヤの豚キムチ。三日も続いたら、文句くらい言っても許されるのではないか。


「悪いな、ツカサ。今日もユカとミキから、もらっちゃってさぁ」


「今日も? ほどほどってもんがあるだろ」


 文句を言っても、腹はふくれない。


 隣に住んでいるユカとミキは、いわゆる同性カップルだ。

 俺にとって、あいさつ程度のお隣さんだった。だが、もともとミコトの紹介で二人は付き合いだしたとかなんとかで、このアパートで同棲を始めたのも、ミコトが大家だったからとかなんとからしい。だから俺なんかよりも、ずっと親しいお隣さんだということくらいはわかっているつもりだ。昼間、俺がいない間に、サヤちゃんまで親しくなっている。本当に、ここは俺の家なんだろうか。


「いただきます」


「……いただきます」


 などと考えていたら、ミコトとサヤちゃんが先に食べ始めた。


 ミコトの手料理は、美味い。カレーライスのときはまだ、ここまで料理ができるとは思わなかった。

 ゴーヤにうんざりしつつも、食べる手は止まらない。


「おじさん、宿題、全部終わったよ」


「もう? すごいなサヤちゃん」


 素直に感心した。俺なんか、八月に入ってようやくやり始めていたというのに。


「すごいでしょ」


「シシッ。ミキのおかげだな」


 どうやら、お隣さんに入り浸っていたのは、勉強を教えてもらうためというのもあったらしい。

 感心したあとで、ふとした困ったことに気がついた。


「けど、こんなに早く宿題終わらせて、明日からどうするんだ?」


 タクミからは、毎日連絡を取り合っているけど、まだサヤちゃんを迎えに来られない。


 今までは、主にここでミコトに面倒見てもらっているけど、お出かけとなるとまた考えなきゃいけない。そもそも、俺がゲームとかテレビとか持っていればこんなことまで考えることはなかっただろうけど。


「あたしと、ドライブする? 映画とか観に行ってもいいし」


「ミコト、さすがにそれはまずいんじゃないか」


 俺もミコトも、サヤちゃんを預かっている他人だ。俺は親戚だけど、サヤちゃんに一番責任を持つのは、タクミとルミさんだ。家族ごっこなんて言っているけど、あまりそういうことはよくないだろう。


「毎日とは言ってないさ。ただ、閉じこもってるわけにもいかないだろ」


「サヤちゃんは、どうしたい?」


 ミコトの言うことももっともで、結局サヤちゃんに丸投げしてしまう自分が情けない。


「うーん。ミコトと遊んでるのもいいけど、たまにはお出かけしたいなぁ」


「たまには、か。じゃあ、今は決めなくてもいいか。ゆっくり考えよう」


 無理に今、結論を出す必要もないか。先送りして、ゴーヤ料理を攻略することに専念する。


 片付けは、俺の担当になっている。流しで食器を洗っている間に、ミコトとサヤちゃんはお風呂だ。いくらサヤちゃんが小学生でも、二人であの浴室は狭いと思うんだが、気にならないらしい。むしろ、ときどき楽しそうな声が聞こえてくる。だから、やっぱり変なこと教えていないか、サヤちゃんが寝てからじっくり話をしなくてはならない。


「そういえば……」


 ふと家族ごっこが始まって三日目くらいに、ミコトが言っていたことを思い出す。


「サヤちゃん、ブラつけたほうがいいと思うんだけどねぇ」


 あのときはミコトもサヤちゃんの両親に遠慮してか、それ以上話はしなかった。夏休み中に帰らなければならないのに、でしゃばりすぎるのはよくない。二人に確認したわけじゃないが、ミコトもサヤちゃんの事情を本人から聞いているようだ。


「ま、家族ごっこなんかしてる時点で、充分でしゃばっている気もするけどな」


 そんなことを考えていたせいか、サヤちゃんが寝たあとでミコトに、ふと浮かんだ疑問を何の気なしにぶつけてしまった。


「なぁ、ミコトは小五でブラつけてたのか?」


 飲んでいた麦茶で、ミコトは盛大にむせた。


「いきなり、どうしたんだよ」


 なにもそこまで驚くことはないだろう。これでもかと目を丸くしているミコトに、こっちが戸惑う。


「いや、この前、言ってたじゃん。サヤちゃんがブラどうのって……」


「あー、あれね」


 なぜかホッとしたような表情で、ミコトはビーズクッションの上で座り直す。


「実は、サヤちゃんに直接言ったんだよ」


 やっぱりというか、なんというかで、呆れてしまう。


「そしたら、ママにまだ早いって言われたってさ」


「へぇ……」


 おばあちゃん――自分の母親のしつけを基準にしていたルミさんなら、ありえそうな話だ。


「でも、最近よく、今時の子は発育がいいって言わないか?」


「シシッ。ツカサの口からそんな話聞くとはね」


 ミコトは、なぜか嬉しそうだった。まるで、俺とこの話ができるのが喜んでいるような感じで、なんとも言えない気分になる。


「ま、そうなんじゃないかな」


 ブラをすることで、自分の体の変化に向き合えるってことを、もっと学校の性教育ですればいいのにと、ボヤいた。初潮が来る前に、しっかりしておくべきだと言うんだ。でも、そこまで性教育はしっかりしていないとも。

 そこまで話をして、ミコトは急にしまったという顔をして口を閉じた。

 不自然な沈黙が続く前に、彼女はおやすみと寝室に行ってしまう。釈然としないけど、追いかけるわけにもいかない。サヤちゃんは寝ているのだし。


「なんだったんだ」

 

 ミコトに気を遣わせてしまったと気がついたのは、寝袋の中でだった。


 チカちゃんがいじめられるようになったきっかけは、保健体育の授業だ。

 けど、なにか大事なことを忘れている気がする。なにか、あの踏切に置き去りにしたなにかがあったような気がするんだ。

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