九匹目 物理の呉照ヌヌ子先生 その②
物理の授業はふたつのクラスが合同でおこなうシステムだった。
広々とした理科室が何十人もの男子生徒たちで溢れかえる。人混みが苦手なねむりにとっては居心地がいいとは言えないだろう。
「やあ宗理くん。君も物理選択なのかい」
荒人が爽やかな笑顔を浮かべながら話しかけてきた。ねむりが返事をするのも聞かずに、隣の席に腰を下ろす。
「この学校はどうだい? うまく馴染めるといんだけど」
「あ、はい、まあ、そこそこです」
そこそこではなさそうな返事しかできない。
「君も物理学を志した同士だなんて奇遇だなあ」
「はあ、そうですか……」
別にねむりは物理学が好きでたまらないというわけではなく、調査の都合でそちらを選択しただけにすぎないのだが、そんなことを知らない荒人は浮かれていた。
「物理が好きなんですか?」
「勉強全般が好きだけど、物理学は特に好きだね」
さらっとねむりには理解不能な発言が飛び出した。根っからの出木杉君なのかもしれない。
「何せ、僕たちが生きる世界を支配する法則に最も深く関わる学問だからね。これを学ばずにして生きるなんて、攻略本を読まずにゲームを始めるようなものだよ」
「世界を支配する法則……」
世界の裏側を知らない荒人にとって、その言葉に『宇宙夢』なる摩訶不思議な法則までは含まれていないのだろうな、とねむりは思った。
「それにこの強化のヌヌ子先生はすごい人だからね──いや、我が蟹玉高校の教師陣は全員が一線級のスペシャリストなんだけども、その中でもヌヌ子先生は特別だ」
「ああ、それ。それです」
聞きたい情報が向こうから飛び込んできた。
「さっき一寸くんからも似たようなことを聞きました」一寸の名前を出した途端、荒人は顔をほんの少しだけ不快げに歪めた。「ヌヌ子先生って、何やらすごいらしいですね。一寸くんは化物と呼んでいましたし」
「化物、ねえ。たしかに一部の生徒は彼女を指してそう呼んでいるらしいし、そう言いたくなる気持ちが分からなくもないけど、あまり関心はしないな」
「どうしてそう呼ばれているんです?」
「理解が及ばないくらい凄い存在に対する理解放棄の表れさ」
「?????」
理解が及ばない?
どういうことだ。
教師とは言ってしまえば、生徒から最も理解されなければいけない人種だろう。理解を得られない教師が行う授業なんて、崩壊しているも同然だ。それは蟹玉高校が目指している高質なカリキュラムという理念に反しているのではないか。
「うーん……口で言っても分かりにくいだろうなあ。今から始まる授業を受ければ、その意味が分かるんじゃないかな。」
荒人はそう言うと、自分の席に戻っていった。
暫く経ってチャイムが鳴り、それと同時に理科室と準備室を繋ぐ扉が開く。
そこから現れたのは、和服の上から白衣を重ね着した女だった。腰まで届く長さの髪は碌に手入れがされておらずボサボサだ。黒縁眼鏡の向こうには、機嫌の悪そうなジト目が鎮座している。その外見は先日謁見した双葉偏世流理事長と真逆なように思えた。
彼女こそが、蟹玉高校で物理を担当している呉照ヌヌ子その人である。
「………………」
ヌヌ子は挨拶も無しにチョークを手に取り、無言で黒板に走らせる。
こうして授業は始まった。
◆
ヌヌ子教師の授業は、物理科目に秀でているわけでもないねむりの頭脳に内容がスルスルと流れ込んでくるくらい分かりやすかった。
否、分かりやすすぎた。
異常なほどに。
ヌヌ子先生は授業中に一度も言葉を発していない。一度もだ。
板書こそあったものの、口頭でのコミュニケーションを放棄しており、そんな授業なんて成り立たないように思えるが、彼女の授業はこの上なく分かりやすかったのである。
まるで、授業を受けているこちらが分からない部分を語らずとも知っているかのように説明していくのだ。その手腕を異常と呼ばずしてなんと言うべきか。
なるほど。
一寸が化物と呼んでいたのも頷ける。
人の域を超えた技──人の常識を超えた法則。
そんなものを使う人といえば──静寂が支配していた一時間を終えたねむりは、今しがた自分が経験した出来事に驚きながら、ヌヌ子先生への疑惑を深めていた。
もちろん、ちょっと変わった技能を見せたからといって即│
と、その時。
「おい、辻野日宗理辻野日宗理辻野日宗理。この後理科準備室理科準備室理科準備室に来い来い来い」
エコーを掛けているかのような喋り方でねむりを呼ぶ声がした。
顔を上げる。呼び声の主はヌヌ子だった。
「え」
思わず二度見する。
授業中ですら一言も出さなかった声を今出しているだと? 自分を呼び出すために? ──ねむりの脳内で困惑と混乱が渦巻いた。
ヌヌ子はナメクジみたいにのそのそとした動きで理科準備室へと戻っていった。しばらく呆然としていたねむりだが、すぐにはっと我に返り、慌てて後を追った。
◆
「おいでませおいでませおいでませ、蟹玉高校へ。とっくに知っているだろうけど、改めて自己紹介させてもらおう。私は呉照ヌヌ子呉照ヌヌ子呉照ヌヌ子。この学校の物理物理物理科目を務めている。本業は教師じゃなくて研究者研究者研究者だがね」
ヌヌ子は最初にそう切り出した。
奇妙な喋り方である。
「この喋り方喋り方喋り方が気になるかい? ──『世間のボンクラボンクラボンクラどもは一度言ったくらいじゃ理解できない』ってことをようく知っているんでね、だから普段は口頭でのコミュニケーションは避けて避けて避けているんだが、どうしてもって時はこうして三回三回三回繰り返して喋るようにしているんだ」
むしろその喋り方の方が聞いてて分かりづらいのでは、と思ったねむりだが、黙っておくことにした。
そんなことよりも聞きたいことがあったからだ。
どうしてヌヌ子先生は自分を呼び出したのだろう。転校生を相手に自己紹介をしたかったからか?
「違う違う違う。自分で言うのも言うのも言うのもなんだが、私がそんなコミュニケーションを重んじるタイプに見える見える見えるかい?」
見えない。
仮にヌヌ子教師が人との繋がりを大切にする人間なら、先に語ったような周囲への見下しから生じる奇妙な話法をしていないだろう。
「じゃあどうして俺を呼んだんですか」
「そりゃあ、男子校男子校男子校に女子が混ざってたら、気になる気になる気になるに決まっているだろうよ」
ねむりは咽た。
「その様子だとアタリアタリアタリらしいな」
「…………どうして分かったんです?」
硝子がねむりに施した男装は完璧だった。これまでの潜入で一度も露見したことがないほどにだ。
外見はともかく中身はねむりのままなので、話していればボロが出るかもしれないが──ヌヌ子先生は碌に会話を交わすこともなく看破した。
「見れば一発一発一発で分かったよ。目が合えば一瞬一瞬一瞬だ」
硝子の技術を一言で否定するヌヌ子。
「私はちょいと特殊な理論理論理論と法則法則法則を知っていてね。それに基づけば、ほんの些細な動きから相手の心の中を覗くことができるんだ。読心術読心術読心術みたいなものと思ってくれ」
「特殊な理論と法則……」宇宙夢、という単語が脳裏を横切る。
「読心術と言っても、超能力のような眉唾物眉唾物眉唾物じゃないぜ。れっきとした学術理論だ」
「心理学、みたいなものですか」
今時、心理学を摩訶不思議な催眠術と混合するなんてナンセンスであることは百も承知だが、そんな推測がつい出てしまう。
ヌヌ子は首を横に振った。
「むしろ心理学なんてものに基づかないと人の心を理解出来ないなんて理屈の方がおかしいおかしいおかしいと、あたしゃ思うがね。人間は考える動物だ──考えて動く生き物考えて動く生き物考えて動く生き物なんだぜ? その動きにそいつの心が現れるのは当然当然当然ってもんだろうが。いいか、心なんてものはな、目に見える現実現実現実なんだよ。だったらそれは
「……ええっと、ヌヌ子先生が仰ったのは心理学における行動主義みたいなものですか?」
「ちげえ。れっきとした物理学だ。この前学会で発表したら十四十四十四度目の追放を喰らったけどな」
ヌヌ子教師が主張した理論はめちゃくちゃだ。しかし、現にそれに基づいた観察でねむりの秘密は暴かれたのだから、その確からしさを認めなくてはなるまい。
それに納得する部分もあった。目視するだけでその人の心の内が分かるなんて技能があれば、先ほどのような授業が可能になるのだろう。教室内を見渡すだけで、生徒たちの理解度が分かるのだから。
「さっきはああ言ったが、正直なところ、我が蟹玉高校に女子生徒が紛れ込んでいても知ったこっちゃない。イケパラ世代の先生はその辺寛容寛容寛容なんだぜ──って、今どきの高校生はイケパラを知らないか?──とはいえ、学園内で二日連続で男装女子を目撃すれば話は別だ」
己の筋肉が強張ったのをねむりは感じた。
「遠目湖沼が『そう』だと知った時は「まあそういう事もあるだろう」「わざわざ看破した事実を突きつける必要もない」と思って、軽く会話会話会話するだけで終わった──が、まさかその翌日に別の男装女子が現れたなら、話は違うだろ。しかもお前ら、同時期に編入しているじゃねえか──いったい何者だ?」
壊れ砕けるヴィルゴ・シック 女良 息子 @Son_of_Kanade
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