八匹目 蠍反紅気のノーノー・ゴーグル

 生徒たちに授業をすることだけが、教師の仕事ではない。

 何もこれは『生徒の人生においても「先を生きるもの」としての立場に立つのが教師の仕事だ』みたいな深そうで浅いことを言いたのではなく、本当に、文字通り教師の仕事は授業以外にも山ほどあるのだ。

 授業の計画に部活動の顧問、進路相談に試験の採点、行事の企画などなどなど。授業外にもやることは沢山ある。教育に力を入れている蟹玉高校であれば猶更だ。

 元号が『探偵』に変わり、天皇探偵即位の儀が執り行われたというのに、どうやらそういう部分には未だに改革のメスが入れられていないようである。

 時計の針が示す時刻は生徒達にとってみれば昼休みにあたるが、職員室にいる教員たちにとってはそんなことは関係なく労働の時間であった。そして、それは新任教師にして潜入調査員である乙女硝子改め遠目湖沼も例外ではない。

 新任教師として午前中をなんとか乗り越えた彼女であったが、それはあくまで『なんとか』であり、午後の授業も十全に突破できるとは限らない。

 なにせ、蟹玉高校はここらの地域では超が付くほどの名門校なのだ。ならば、教師に求められるレベルも必然的に高くなる。あまり半端な授業をしていては、無能教師の誹りを免れない。潜入調査中にそのような評価を受けるのは、あまり喜ばしくない事態だろう。

 故に、硝子は己の授業のブラッシュアップに努めていた。彼女の本業は教師ではないし、またこれまで家庭教師や塾の講師のような人にものを教える仕事に就いていたことはない。しかし、学校への潜入調査が決まってからの僅かな間に教員資格認定試験を一発合格できるくらいの知識は頭に詰め込んでおいた。

 あと足りてないのは現場での経験だけだ。そして、それも午前中の授業で大体補えた。

 我ながら授業と調査どちらに本気になってるのか呆れるなあ──心中で苦笑しながら、硝子は授業の段取りを書き記したノートに筆を走らせる。

 その時だった、彼女が背中にを突き付けられる感触を知覚したのは。  


「ず、ずずずず……ずず……」


 同時に、背後から物を引きずる音を真似たような声が響く。小さな声だ。これでは向かいの席で資料と睨めっこしている男性教諭の耳にも届くまい。硝子が座っている席は職員室の端っこなので、背後にあるのは壁だけだ。

 周囲に目を向けて見る。誰も硝子の背後にがいる事に気づいていない。それもそのはず。硝子ですら手遅れになるまで気づけなかったほどに隠された気配に、一般教師が気づけるはずがないのだから。

 硝子は、深いため息を吐き、背後の声に負けないくらい小さな声で喋った。


「相変わらず心臓に悪い登場の仕方をするね、さそたん。その様子だと、人見知りはまだ治ってないようだね。人に刃物を向ける夢遊者コスモプレイヤーなんて、あなた以外いないからすぐ分かったよ」

「ず、ずずず、随分お忙しいようですね、オットー。いえ、今の貴女の偽名に倣えばトッメーの方がよろしいでしょうか」

「どうでもいいよ」


 背後に潜んでいる『さそたん』、コードネーム『スコープ・オン』、本名『蠍反さそりそり 紅気こうき』は、硝子と同じく春眠K市支部に所属する夢遊者コスモプレイヤーである。

 能力名は『ノーノー・ゴーグル』。コスモ・トランス時にコスチュームの一部として現れるゴーグルを通じて、一度肉眼で目にしたことがある相手を追尾して監視することが出来るという能力だ。

 そういう能力を持っていることがあり、探索や監視の任務を任されることが多く、そのため表舞台に出てくることはあまりないのだが……──


「いや、さそたんが表に出てこないのは能力だけじゃなくて性格も原因か」


 依然として背中に突き付けられているナイフの存在を感じながら、硝子は呟いた。


「相手の生殺与奪の権を確実に握っているくらいの優位に立てないと、人と会えないほどの人見知り……いや、ここまでくると人間不信だね」


 しかも、夢遊者コスモプレイヤー共通の弱点である背後から忍び寄るという徹底ぶりである。振り向こうとしようものなら、首が十五度回ったあたりで心臓を一突きだ。硝子はそんな無謀に挑戦したことは無いし、彼女が聞いた限りでは春眠のメンバーで紅気の凶刃の被害に遭ったものが居るという話は聞いたことがない。メンバー外に居ないかどうかまでは知らないが。

 そういうわけで、硝子は『ゴーグルをかけている』という一点以外に紅気の外見についての情報を知らない。彼女と会う時はいつも背後からのサウンドオンリーなのだから。


「あれ? たしかさそたんのナイフって、うすたんの『スリー・ツー・ワンダーランド』の能力で作ってもらった、魔法のナイフならぬ夢のナイフだったよね? それって製作者のうすたんが死亡しても消えないの?」

「ええ、消えませんよ。たしかにこの『アンタレス』はテッビーの能力から産まれたものですけど、だからと言って死ぬ時までテッビーと一緒というわけではありません。破壊系能力によって生み出された瓦礫が、能力者本体が死亡した後でもそのままなのと似たような理屈です」


 「それは違くない?」と思った硝子だったが、紅気が『アンタレス』の健在を主張するように先端をぐりぐりと動かしたことで呼吸が一瞬止まる。もし紅気がうっかりくしゃみをしようものなら、硝子の人生はここで幕を引くことになってしまうだろう。

 紅気が人見知りなのは、推測するまでもなくずっと前からだろうし、人の背後に隠れるのも同じく昔からなのだろう。しかし、ナイフを突きつけるという物騒な行為をやりだしたのは、つい最近──春眠に入った直後からである。

 夢遊者コスモプレイヤーになり、天美院有朱野に誘われて春眠に入ったばかりの頃、紅気は右に左に怯えてばかりだった。ただでさえ人間社会にすら不適合な性格をしている彼女が、夢遊者コスモプレイヤーの世界に斯様な反応を示すのは当然だろう。

 それを見かねた有朱野が彼女に渡したのが、夢のナイフ『アンタレス』である。切れ味は勿論、ほんの僅かな切り傷でも与えればそこから毒が侵入し、相手を死に至らしめるというどこぞの帝具みたいな武器だ。


「遠くからコソコソ観察するなんていう地味ぃ~~な能力だから、そんな風にどんどん憶病になっちゃうんでしょう? だったら、この可愛い私がこれをあげるわ。これさえあれば大抵の敵は倒せるんだし、自信になるはずだわ」


 自信を付けさせるためにそれを渡した有朱野だったが、翌日になって背後から『アンタレス』を突き付けられた瞬間、彼女は可愛い自分がした行いが間違いだったことを知る。

 馬鹿に刃物ならぬ臆病者に刃物という状況になり、春眠K市支部は一時騒然となる。だが、『こちらが余計な干渉をしない限り、突き付ける以上のことはしてこない』と判明したため、最終的に静観の方向で落ち着いた。一部からはぶん殴ってでもあの危険極まりない武器を取り上げるべきだという意見も出たが、そうやって追い詰めた結果紅気がどんな行動に出るのか考えただけで、その議論の場に居た全員の背筋が凍ったため、それは却下された。

 そうやって放置され続けてきた結果、今日に至るというわけだ。


「そもそも普段は支部長のさかたんを介してみんなと連絡しているさそたんがこうして外出して、こんなに人がいる場所にまでやってきて、私と会話するなんて珍しいってもんじゃないよね? 明日はオーロラでも見れるのかな」

「私だってこんなところに来るのは嫌でしたよ。タッツーは今日忙しいらしいので」

「ああ~……メンバーが少なくなった分、外部からの干渉が強くなってK市支部存続の危機らしいからね、そりゃ大変か──だったら電話でもよかったんじゃない?」


 そしたら自分はこうしてスリル満点な体験をせずに済んだんだしという意を込めて、硝子は言う。


「電話? 駄目ですよアレは。盗聴される恐れがあります」

「ああ、たしかに『貘夜』ならそこまでやりかねないよね。昨日の定時報告でも同じことを思ったよ」

「いえ、『獏夜』だけではありませんよ。CIAに内閣、フリーメイソンに至るまで、私たちの周囲にはストーカーがうじゃうじゃいますからね。どれだけ姿をくらましても、巧妙に追いかけてきます。そんな中で電話を使うなんて、どうぞ盗聴してくださいと言っているようなものじゃないですか。……いえ、盗聴されるのは電話だけじゃありませんね。この前なんて、私の思考を読み取ったかのようにテレビのコメンテーターが──」

「…………」


 この任務が終わったら何とかして紅気にカウンセリングを受けさせよう。

 そう決意する硝子だった。


「──それに、代役や電話で済ませられない用事ですしね」

「あっ、そうそれそれ」


 話題を戻せそうなので、切り替える。


「いったい何の用なのかな?」

「そうですね……」


 すると、背中に触れていたナイフがさらに数ミリ前に進んだ。


「え?」


 完全に刺されたかと思った。それくらいのギリギリの位置まで、刃先が迫っている。背中の皮が凹んでいる。食い込んでいる。


「釘を刺しに来たんですよ。いえ、この場合、刺すのはナイフになりますが」


 小声で淡々と、紅気は語る。


「意外に思われるかもしれませんけど、私って結構テッビーが好きだったんですよ」


 出会う度に背後からナイフを向けていた相手に対して「好きだった」は本当に意外過ぎる。


「私を春眠にスカウトしてくれたり『アンタレス』をくれたりしたからというのもありますけど、それ以上に私は彼女そのものが好きだった。彼女の眩しさが、自信が、誇りが、可愛さが、私にないものをなんでも持っている彼女が羨ましくて羨ましくてたまらなかった──だから、私はテッビーを殺した『ジェミニ・スカート』を許さない。絞り込みなんてまどろっこしいことなんてせずに、容疑者全員……いえ、この学校にいる全員……いえいえ、K市に住んでいる全員を、このナイフでぶっ刺してやりたいくらいには頭に来てるんですよ」


 静かな言葉に、殺意が墨汁のように滲んだ。


「だけどそうしないのは、最期まで春眠の為に戦った彼女のための復讐を、そんなちんけな大量殺人事件で終わらせたくないからです。……ですから、ねえ、オットー?」


 絶対に犯人を見つけてくださいね?

 そう言うと、紅気はもう一回ナイフをぐりぐりと動かし、それを最後にその場から消えた。

 おそるおそる振り返る。そこには誰も居ない。いや、最初から誰も居なかったのではないカーン? 

 紅気が残したのは、じっとりとした怨念と、背中に穴が開いたスーツだけだった。

 キーン。

 コーン。

 カーン?

 コーン。

 チャイムが鳴る。

 五限の予鈴が告げられた。



 正義側、ギルド『春眠』所属。

 夢遊者コスモプレイヤー名、スコープ・オン。

 本名、蠍反紅気。

 所持宇宙夢、ノーノー・ゴーグル。一度直視した相手の姿をゴーグルに映し出すことが出来る。一度ストックに入れれば、どれだけ遠くに離れようとその目から逃れることは出来ない。以前、K市支部主導で『スリー・ツー・ワンダーランド』で作った異世界に移動したアリスを『ノーノー・ゴーグル』で見るという実験をおこなったが、結果は成功だった。

 基本的に物陰から一方的にこっそり見ることで、ゴーグルに映すストックを増やす。家族やギルドメンバー以外と会うことが殆ど無いので、ストックが無駄に増えて管理に困ることは無い。紅気がストックから削除したり、あるいは監視対象が死亡したりすると、能力が解除される。あくまで見るだけの能力なので、それ以上の干渉は出来ない。


 17歳。高校中退。引きこもり。社会不適合者。陰謀論者。人見知り。ロリコン。

 学生時代に引きこもりの原因になるを経験したことが切欠で、上記のような宇宙夢に入眠する。

 他人と接するのが怖すぎた結果、自分以外の人類を絶滅させることを思いつくのだが、その具体的な方法が思いつかず深夜の自室で発狂していたら、親から家の外に追い出された。その後あてもなく夜の街を彷徨っていると、近所の公園でバニーガールに出会う。天美院有朱野だった。

 内向的ではあるものの、その攻撃性が自分に向けられることは絶対ない。自殺するくらいなら通り魔殺人を起こすタイプ。アリスを失ったことで最近ヤバさに拍車がかかった。 

 事件になるようなことはまだ起こしていない。まだ。

 


 

 


 


 

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