七匹目 物理の呉照ヌヌ子先生 その①

「あー、はい、ただいまぁ」

 

 ビジネスホテルの部屋に帰ってきた硝子は、随分やつれた顔をしていた。化粧で隠しきれないほどに、疲労の色が濃く表れている。


「何があったんですか、硝子さん」

「いやあ、ねむたんが帰った後にさあ……」

「え、あの先生の指導ってそんなに厳しかったんですか」


 ねむりの記憶の中の鋸木林教師は、スパルタ指導とは無縁の雰囲気を纏っていたが、人は見かけによらないのかもしれない。


「いや、違う違う違う。鋸木林先生の指導は普通だったよ。むしろちょっと手が抜かれてたくらい。怠慢だねえ」

「はあ」


 それはそれで問題な気がするのだが。


「いや、本当に問題だったのはその後だよ。鋸木林先生からの指導や校内の案内を受け終わった私は、帰途に着こうとしていたんだけど、タイミングを間違ってしまったんだ。なにせ、その最中に蟹玉高校唯一の女教師にして問題教師、呉照くれてる ヌヌ子と遭遇してしまったんだからね」

「女教師──ということは」

「ああ、そうだとも。私たちのターゲットのうちのひとりということになるね」

「それは喜ばしいことなんじゃないですか? 学校を訪れた初日にターゲットにふたりも出会えるなんて」


 それにコミュ障の役立たずであるねむりがその場にいなかった分、より高いパフォーマンスを発揮できたはずだ。それの何処が問題というのだろう──問題教師?


「具体的にどういう所が問題だったんですか?」

「えーと、それはねそれはねそれはね……」


 と、そこで硝子ははっと何かに気づいたような表情に変わり、頭を抱えた。


「あー、駄目だ移っちゃったよ」

「移った……?」


 いったい何の話をしているというのだ。ねむりは硝子と出会ってまだ一日も経っていないが、それでも彼女の様子が明らかにおかしいことは分かった。件の問題教師との邂逅で与えられた影響なのだろうか。

 

「ううんとね、私から呉照ヌヌ子のキャラクター性を説明するのは多分不可能かな。というより、彼女を説明できる人なんて、この地球上にいないと思う」

「それほどまでの人なんですか……」

「それほどまでの人……人なのかな、アレは。正直な話、夢遊者コスモプレイヤーかどうか関係なくあまり関わりたくない人種だよ」


 コミュ力マックスのイケイケ女子である硝子がそこまで言うなんて、いったいどんな人物なのだろうか。陰キャのねむりとしては想像するだけでガクガクと震えるしかなかった。お近づきにならないことを願うばかりである。


「だからさ、明日ねむたんが会いに行って、実際にその目で確認した方が早いと思うよ」

「え」


 硝子が言ったファミ通の攻略本みたいな台詞に思わず聞き返してしまう。


「実際にその目で確認って何を……」

「いや、だから呉照ヌヌ子を」

「無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理」


 口に合わせて突きラッシュを放っているんじゃないかと思わされるくらいの勢いで拒絶の言葉を述べた。ねむりが自分の意見をはっきり主張するのはこれが初めてだったので、硝子は少し驚いた。


「む、無理です。硝子さんでも会うだけでそこまで疲労困憊を強いられた相手に、私なんかが出会ったら、どうなるか……」


 最悪死ぬかもしれない。ねむりは本気で怯えていた。これまでのどんな戦いでも抱いたことが無いほどの危機感を、現在の彼女は味わっていた。

 この子って何考えているか分かりづらいと思っていたけど、特定の感情については寧ろ分かりやすいくらいなのかも──そう考えながら、硝子は口元を悪戯っぽく歪める。


「安心しなって、ねむたん。見るにしても、別に今日の私みたいなシチュエーションってわけじゃないんだから。ねむたんにはねむたんなりの──ひとりの生徒としてのアプローチの手段があるでしょ?」


 教師と教師ではなく、教師と生徒の関係で対面するシチュエーション。

 そんなものは、ひとつしかない。


「ズバリ、『授業』。ヌヌ子先生の担当科目である物理の時間に、生徒の視点から彼女を観察してちょうだい。私では無理な手段で得られたそれは、きっと役に立つと思うから──これなら、彼女が多少特殊な性格をしていても、できそうでしょ?」

「…………」


 そう言われるとどんなに自信のあったことでもすぐさま不安になるのが羊野ねむりという人間なのだが、一対一で対面するよりは遥かにマシなので、彼女は力なく首を縦に振るのであった。



 翌日。

 転校生として朝のHRで紹介されたねむり、もとい辻野日宗理は、一時間目、二時間目の休み時間こそ周囲に人だかりを形成していたが、その更に内側に形成していたATフィールドによって、来訪者に興味を抱いて近寄ってきた男子生徒たちの悉くを跳ね除けており、四限の授業を終えた頃には孤高を極めていた。ぼっちのRTAに挑戦しているようにしか思えない。

 だが、昼休みを迎えた今になっても、そんな彼女の元に訪れている男子生徒が、ひとりいる──二子玉一寸だ。


「だから、俺が思うに最強のラーメンは味噌だと思うんだよ」


 『だから』以前に何があればどう繋げられるのかさっぱり分からない持論を述べながら、一寸は購買で入手したピザパンを齧る。


「だって、醤油も塩も、味噌の親戚っつーか下位互換みたいなものだろ? ということはつまり、醤油ラーメンも塩ラーメンも味噌ラーメンには及ばないわけだ」


 どこから出てきた理屈だ。


「その理屈だと、豚骨ラーメンはどうなるの?」

「豚骨は臭いから無理」

「……ああ、そう」


 どうやら一寸は今日も自分の世界を満喫しているらしい。その事を確認したねむりは、コンビニ弁当に入っていたミートボールを口に運んだ。

 その間も話し続けてる一寸だが、そんな彼に対してねむりが拒絶の意志を告げることは無い。なぜなら、彼女がぼっち空間を形成する際に使用するのは、言葉で伝える積極的な拒絶ではなく、態度で何となく察してもらう消極的な拒絶だからだ。もしねむりに『おまえがどのラーメンを最強と思っているかなんて、弁当に入っているバランよりどうでもいいことだ』なんてハッキリと言える精神が備わっていれば、そもそも彼女はここまで内気な性格になっていなかったはずである。

 ともあれ、どういうわけかねむり扮する宗理を気に入ってるらしい一寸は、昼休みに一人飯をしていた彼女を見かねて、食卓を共にしているのである。


「あと、なにより味噌ラーメンはあの大味なところが」

「そ、それよりさっ」


 人の話を聞き流すだけならこちらから何もしなくていいから楽だろう──そう考えてこれまで生きてきたねむりだが、彼女の考えは此度覆されることになる。

 この世には、聞いてるだけで苦痛なくらいつまらない話がある。喋り下手が自分から話し始めてでも、話題を切り替えようとするくらいに、つまらない話がだ。


「次の五限の授業は物理だけど、担当の先生が女の人らしいね。たしか、呉照ヌヌ子っていう……」


 話題転換と情報収集を兼ねた切り出しに、我ながらファインプレーだと自分を称えるねむり。

 それを聞いた一寸は生暖かい目でニヤリと笑った。


「おうおうなんだあ、ムネリぃ? おまえもやっぱそういうのに興味があるのかよ。いや、別に恥ずかしいことじゃあないぜ、右も左も野郎しかないこの学校で、数少ない華に目が行くのは自然な事だろうよ。それに、ヌヌ子先生は顔も綺麗だしなあ。うんうん」

「…………」

 

 どうやら一寸は勘違いしているらしいが、それを正すわけにもいかないので、そういうことにした──しかし。


「だけどな」


 一寸の表情は一転して固いそれに変わり、心なしか声のトーンも下がる。


「あの化物にそういう関心を向けるのはやめておけ──絶対後悔するからな」


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