一匹目 天美院有朱野のスリー・ツー・ワンダーランド
頭に付けたウサギの耳のようなリボンが特徴的な少女、
今が体育の授業中で、短距離走をしている──というわけではない。そもそもこの世に生を受けてからまだ十一年しか経っていない有朱野に、高校の敷地内に這入る資格はない。
現在時刻は深夜。本来なら、この場に人などいるわけがない時間帯である。
では何故、有朱野は月明かりの下、頭から生えたリボンを激しく揺らしながら走るという行為に及んでいるのだろうか?
その理由は、彼女の後方から迫り来る、毒ガスのような悍ましい気配にあった。
「可愛い私が脱兎のごとく逃げることになるなんて……! まったく腹立たしいったらありゃしないわ!」
ジャージにスニーカーという、まるでこの状況に備えて着ていたかのような服装を汗で濡らしながら、有朱野は宵闇の中を駆け抜ける。
背中で感じられる不吉な気配から必死に、逃げる。
しかし、幸運の女神は彼女に微笑まなかったらしい──しばらくすると、目の前に高いフェンスが立ちはだかった。校庭と校外の仕切りを目的として設置されているものである。
「ウッソでしょ……!」
絶望した表情で金網でできた壁を見上げる有朱野。
どうやら彼女は、この場から逃げるために校庭からの出口を探していたようだが、迷った末に行き止まりにぶつかったらしい。学園の地理に詳しくないが故に起こしてしまった失敗なのだろう。
有朱野はおそるおそる振り返る。振り返った先には、彼女を追いかけている存在が、すぐ近くまで迫ってきていた。この距離では、今からフェンスをよじ登って逃げようとしても、その最中に追いつかれて引き摺り下ろされることは確実だろう。
その事実を確認した有朱野は、涙目になり、臓物も一緒に吐き出したのではないかというくらい重いため息をついた。
だが。
次の瞬間、彼女は目尻に浮かんでいた涙を拭い、目付きを情けないものから鋭いものへと変えた。
それは、ただ逃げるしか能のない臆病者の目に非ず。
腹をくくり、戦う覚悟を決めたものだけが持つことを許される目だった。
「……本当は変身するのは嫌なんだけどね。死ぬほど嫌よ。だって、可愛い私の
有朱野は覚悟の目を少しだけ伏せて、赤面した。
しかし、すぐに視線を正面に戻し、続けて口を開く。
「まあ、そんな衣装すら着こなしてみせるのが、可愛い私なんだけどねっ! 」
有朱野がそう叫んだ瞬間だった──彼女の体から、なにかが噴出したのは。
黒い──煮詰めたカラメルのように黒い、粘性の液体だ。中にはザラメのように小さく細かい粒子が含まれており、キラキラと光り輝いている。
まるで液状の宇宙みたいである──否。『みたい』ではなく、それは真実宇宙であった。
「コスモ・トランスッ!」
有朱野が自信に満ちた表情でウインクをした──それが合図だったかのように、彼女の凹凸が少ない体を余すところなく包んでいた宇宙が、眩い光を発しながら変化した。
混沌の如く不定であった形は、布に、ビニールに、ワイヤーに変容していく。
地上でビッグバンが起きたかのような極光が収まった時、そこに立っていたのはバニーガール姿の有朱野であった。
……もう一度言う。
バニーガール姿の天美院有朱野、十一歳である。
肌に密着しやすいポリエステルの生地。
フェンスよりも網目の細かいタイツ。
蝶ネクタイ入りの付け襟。
フワフワと触り心地の良さそうな丸い尻尾の飾り。
足元の装備はスニーカーからハイヒールに変わっており、身長が僅かに高くなっている。
変身前までは頭上で激しい自己主張を行なっていたリボンは、ウサミミのヘアバンドへと変化しており、まるで本物の兎の耳みたいにピョコピョコと動いていた。
『バニーガール』と聞いて百人中百人が思い浮かべるイメージ図をそのまま持ってきたかのように、ステレオタイプでアダルティックなバニースーツだ。もっとも、それを着ているのはまだ適正年齢には程遠い、文字通りの『ガール』なのだが。
有朱野の変身が完了した時、追跡者は、彼女から姿形の影が視認できる距離にまで到達しており、そこで立ち止まっていた。
視認できる。
それはつまり、彼女が有する夢の異能『
「可愛い私の名前は『ライブラ・ビット』。アナタの名前を聞かせてもらおうかしら?」
「…………」
追跡者からの返答はなし。聞こえていない、というわけではなく無視しているのだろうか。
「可愛い私を無視するなんて、随分生意気ね。でも、今から見せてあげるコレを目にしても、そんな態度を取っていられるかしら?」
先ほどまで逃げ回っていたのが嘘みたいに強気な様子で話す有朱野。
それもそのはず。
なにせ、彼女が有する『
誇張抜きで「変身した瞬間に勝負が決着している」と断言できるほどである。
「『窮鼠猫を噛む』って言葉があるけど、まさに今の状況にぴったりな言葉だと思わない? なんてったって、こんなフェンスぎりぎりまで追い詰められていたキューソにしてキュートな可愛い私の『スリー・ツー・ワンダーランド』が、これからアナタをブチのめすんだしねっ!」
まあ、可愛い私の場合は鼠というより兎なんだけどっ! ──余裕から出てきたどうでもいいことを言って、有朱野は追跡者目掛けて、自身が誇る必勝の
その瞬間、彼女の視界が突然一メートル以上上昇し、それに伴い追跡者の姿は視界からフェードアウトした。
「え……?」
困惑の呟きを口にする。
それが、何者かにウサミミを掴まれ、力任せに引っ張られたことで首を引き千切られた有朱野の、最期の言葉になった。
──いった、い……何が、起き……。
肺との連絡を断たれ、話すことが出来なくなった有朱野は、残された力を振り絞って自分の持ち主に目を向ける。
土に埋まった大根を引き抜くように彼女を生首にしてみせた下手人は、五メートル以上の体躯を誇る巨大な影だった。
天から降り注ぐ月の光が逆光となり、有朱野からその全体像は伺えないが、明らかな異形と異様に、顔中に鳥肌が走る。
巨人は有朱野の頭を無造作に放り捨てた。
後頭部から地面に衝突した痛みに悶える暇もなく、有朱野は周囲が暗くなったことに気が付く。
視線を上げる。落ちた有朱野に向かって、巨人が畳一枚分の大きさはある手のひらを振り下ろしているではないか。
──や、やめて……。顔は潰さないで。可愛い私の、可愛い顔を、潰すことだけは……
懇願の台詞すら言えなかった有朱野の頭は叩き潰された。
◇
蟹玉県出身のアイドル、天美院有朱野が私立蟹玉高校の屋上から転落死したというニュースは、翌日のお茶の間を大いに騒がせた。
『人気絶頂の芸能人がした自殺』という話題性、そしてそれ以上に『何故小学生女児である彼女が高校の屋上から飛び降りたのだろうか?』というミステリー性が、人々の注目を集めたのである。
「そのミステリーの答えは至って簡単だよ、ねむりくん。みんなのアイドルだった有朱野ちゃんの正体は世界を守るために日夜戦っている
ギルド『春眠』の蟹玉県K市支部長である
机を挟んで彼女の向かいのソファに座っていた羊野ねむりは「はあ、そうなんですか」と返すことしかできなかった。
「おいおい、なんだよその味気ないリアクションは。『アイドル界の一番星くもる』と呼ばれているほどに国民的人気を誇る有朱野ちゃんが、別名アリスちゃんが死んだんだぜ? まさか彼女のことを知らないわけじゃあるまいし」
「いや、知らないです……」
「マジかよ」
もっと言うなら、天美院有朱野という少女が死んだというのも初耳だ。ねむりはあまりニュース番組と縁がないタイプである。ああいう嫌な現実感に満ちたテレビ番組は好みではないからだ。
「……まあいい。この話において、『天美院有朱野』が頭に超が六つ付くくらいの有名人だったことは、さほど注目すべきことではないからね。重要なのは、『ライブラ・ビット』を殺した『貘夜』の刺客がいるってことさ」
そして──と、坂菜は机の上に置いてあるA4サイズの薄い冊子に視線を落とした。冊子の表紙には煉瓦造りの歴史を感じさせる荘厳な佇まいの建物の写真があり、上部には『蟹玉高校入学案内』と明朝体フォントで書かれている。小学生アイドルが謎の死を遂げた舞台のパンフレットのようだ。
「
「そうなんですか?」
「論拠ならある」
坂菜はパンフレットに重ねるようにしてK市の地図を取り出した。
「まずここが蟹玉高校ね」
懐から赤ペンを取り出し、地図の真ん中部分にバツ印を付ける。
「で、ここが半年前にウチの
言いながら、地図上に次々とバツ印を増やしていく。
「最後にここが……」
「有朱野さんが殺された所ですね」
「その通り」
御名答を褒めるように口元をニヤリと歪めながら、坂菜は一番最初に付けたバツ印を再びなぞった。
地図上に記されたバツ印の群れは、蟹玉高校周辺に密集している。このデータから『貘夜』の刺客がそこの関係者であると推察するのは牽強付会ではないだろう。
「立て続けに起きた我がギルドのメンバーの襲撃事件を受けて、アリスはパトロールしていたんだが……まさかこうなるとはね。どうやら敵は僕らの予想以上らしい──で、」
坂菜はソファに深く座り直し、射抜くような視線を向けた。ねむりが苦手なタイプの目である。
「この事態を重く受け止めた『上』は、解決の為に君を派遣したってわけなのさ、羊野ねむりくん」
「……これは単純な疑問なんですけど」
ねむりは自信なさげな声をポツリポツリと紡いだ。
「K市支部の人たちでも勝てなかった刺客の対処に、私が派遣されても意味はないんじゃないですかね?」
「ははは、そんなことはないさ。自分を卑下しないでくれよ。なにせ、君は我ら『春眠』の英雄『ローズ・クレイドル』の姉君なのだから」
「…………」
坂菜の言葉から入院中の妹の痛々しい姿を思い出させられ、気分を害されるねむり。
いばらの姉だから何だと言うのだ。自分はまだ
「本当は支部長である僕が直々に対処すべき案件なんだろうけどね。これで万が一にでも僕がやられるようなことになればそれこそ全てが終わりだ」
「全てが?」
「そう、全て──トップである僕が倒されれば今度こそK市支部は崩壊するだろうし、僕らが守っている要石は『貘夜』の手に渡ってしまうだろう。そうなれば、K市一帯の夢は終わったも同然だ。そして、そこに空いた穴はいずれ世界中を巻き込むことになるかもしれない。これは決して大袈裟な考えではないんだよ」
「…………」
「おっと、脅しが過ぎたかな?」
決して笑い事ではないことを言ったばかりの口でヘラヘラと笑う坂菜。「やっぱり、この人は苦手だな……」とねむりは確信した。
「まあ、僕が言いたいのは慎重になり過ぎて損はないってことなのさ」
坂菜はねむりから受けた質問に対する答えを、そう締めた。
「とはいえ、何も君ひとりでこの難易度ハードな案件に取り掛かってもらおうってわけじゃあない。絶賛人員不足中のウチに残された数少ないメンバーの中から『ヴィルゴ・シック』が手を貸してくれるんだからね」
「そういうことでーす♪」
真横から突然聞こえてきた第三者の声に、ねむりは座ったままの姿勢で飛び上がりそうなくらい驚いた。
声のした方向に目を向ける。
口から息を吐けば鼻にかかってしまいそうな距離には、ねむりより一、二歳年上であろう少女の顔があった。
長い髪で右目が隠れているが、露わになっている部分は化粧を施しているが濃すぎるというわけではない、ザ・女の子って感じの可愛らしい顔をしている。こんなインパクト絶大な登場をしていなければ、見とれていたかもしれない。
いったいいつのまに横に座っていたのだろうか──パーソナルスペースを大いに侵害されたことでストレス値が急激に上昇しているねむりを置き去りに、目の前の少女はとびっきりの笑顔と共にこう言った。
「私の名前は
◆
ギルド『春眠』構成員。蟹玉県K市支部所属。
本名、天美院有朱野。
所持宇宙夢、スリー・ツー・ワンダーランド。K市支部最強どころか夢遊者全体を見渡しても上位に入るほどの能力であり、「『ライブラ・ビット』が変身すれば、その瞬間に勝負が決まる」とまで言われている。それほどまでの宇宙夢を持つ彼女が殺されたことで、『春眠』の上層部はK市に出没した刺客に注目したらしい。
11歳。
『可愛い』という単純にして最強の武器を備えて誕生する。
両親や周りの人々から愛でられて暮らしていた彼女が、アイドルとして芸能界に入るのにそんなに時間はかからなかった。
──が、そこで起きた芸能界の闇を煮詰めたような『とある事件』をきっかけに、宇宙夢を発現することになる。
そのまま世界の全てに絶望し、ヴィラン側に堕ちそうになっていたところを、先代K市支部長に拾われ、正義の夢遊者として活動するようになった。
コスモ・トランスする度に宇宙夢を発現した時のトラウマを思い出してしまうので、あまり変身は好まない。
それに加えて変身後の自分の姿を際どいと思っているので、追い詰められるギリギリまで変身を温存しておくという悪癖がある。
自分の可愛さに絶対の自信を持っており、可愛ささえあれば大抵の法則は歪み、理不尽は罷り通ると本気で信じている。「そのような性格であるがゆえに、あのような宇宙夢に目覚めたのではないか」と先代K市支部長は考察していたが、その真偽は分からない。
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