第4話 とろけおちる 4
「行こう」
気が変わらないうちに。みつこの愛に引き戻される前に。
苦く濃いコーヒーを飲み干して、岸田と公恵は店を出た。その後の足取りは、のちに防犯カメラをつなぎ合わせることで、途中までは判明した。
シャッターのおりた店の多い商店街を抜けて、まっすぐに駅に向う。ICカードで各駅停車に乗り込む。十分ほど乗車してターミナル駅に降りる。そして乗り換える。下りの特急だ。自由席。
しかし、追跡はそこで終る。どの駅で降りたのかが判然としない。少なくとも、男女の姿としては記録されていない。別々に降りたのか。まさか、服を換えて?
富岡は顧問の勝又善治郎と岸田の部屋へ行き、みつこと会った。
「三日ですよ、三日。どこに行ったのかわからないんです。先生になにがあったのか、心配でしょうがありません」
みつこはそれほど心配している風でもなく、ポリポリと野上公恵が置いていった焼き菓子を食べている。
「確認させてくれ」と突然、影のように存在感のなかった老人が立ち上がる。いきなりクローゼットを開ける。
「なにするんです!」
がらんとして生活感のないクローゼット。洗濯された衣服が畳んで置いてある。ハンガーは何十とあるのに、服は一枚もかかっていない。クローゼットの床に畳んで積み上げられている。真新しい有名ブランドの靴の入った箱が四つ。どれもみつこのものだ。
浴室。そこは濡れている。みつこは好きな時に風呂に入る。彼女の押しつけがましい甘い香りで満ちている。ふたで閉じられた浴槽。老人は足が濡れるのも気にせずにそれを開けた。
温くなった湯から、かすかに湯気が立ちのぼる。死体はない。
トイレ、キッチン、納戸……。
「いませんよ、そんなところに」
「じゃあ、どこに消えた」
「知りません」
「八年ぶりに見つけたのに?」
「まさか、勝手に出かけるとは思わなかったんですよ。おとうさんは、もう二度とそういうことのできる人ではなくなっていたと……」
「じゃあ、なにができるんだね?」
みつこは微笑む。「なんでも」
自分の愛を逃れた男はなんでもできるのだ、とみつこの笑みが告げる。みつこの愛は岸田をここに縛り付けておくことはできなかった。その敗北感を誤魔化して。
「ここを勝手に出て行く以外なら、なんでもできたわ」
「不思議だ。前に会ったことがある」
「前にもいらしたわ」
「もっと前だ。何十年も前」
「それがなにか?」
「私は勝又善治郎ではない」
「でしょうね。そんな気がした」
みつこは笑う。歯に焼き菓子がこびりついていて、それを伸びた爪の先で掻き落とし、必要以上に爪をしゃぶる。
「あの男は、勝又幸之助ではない」
みつこの笑みはしだいに疲れてくる。
「おまえは、みつこじゃない」
「だったら?」
ようやく富岡が立ち上がった。キッチンで立ち話をしている二人に対峙する。手を、拭っても拭ってもべたべたした汗が取れないらしく、しきりにズボンに擦りつけて。
「帰ります。ここにいたくない。あのときみたいな気分になる」
「あのとき?」とみつこと老人が同時に富岡に言葉をぶつけた。
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