第4話 とろけおちる 3

「公恵を使う」

「それはいい。楽しみだ」

 老人は喜びながら、先に立って店を出た。

 その日から、岸田は同じ夢にうなされる。

 彼が仰向けになって横たわっていると、その上にみつこが冷たい肉体を押しつけてくる。あたりにはとてつもなく甘い香りが漂い、これは夢じゃないと思わせる。夢なのにこんなに強烈な香りがするはずがないからだ。そこに薄く開いたままになっている窓から、香りにつられて何匹もの虫たちが入ってきて、耳鳴りのように羽音で部屋をいっぱいにする。

 彼女が吐く息が生温かい。肌は冷たくてもその中には燃えたぎるような血が駆け巡っていて、粘膜という粘膜を充血させている。

 その快楽に岸田は文句も言えず、ただ身を任せている。

 ふと目を開けると、みつこの向こう側に真っ黒な虫がいる。虫を払いのけようと思う前に、それが老人の頭部だとわかる。

 みつこの上に、あの老人がいる。勝又善治郎とか言っていたあの男。おかしな話を岸田に持ちかけた男だ。

 これはまずい、と岸田が思う間もなく、老人は鋭い牙をみつこの分厚い肩に食い込ませていく。

 夢だから血は出ないのだ、と思ったとたん、ビューッと勢いよく湯気を立てて鮮血がほとばしる。

 老人は笑いながらそれを吸い、やがて肉を噛み切る。黒っぽいその断片は、カツオの血合いの部分を思わせる。虫たちがそこに群がっていく。

「口を開けて」とみつこが言う。「飲んで」と。

「いやだ」と岸田は告げたいが、開いた口にどっと血が流れ込んでくる。

 みつこが笑う。

「気持ちいいでしょ、気持ちいいでしょ」と壊れた機械のようにわめく。

 そんな夢ばかり見ていると、岸田は、すでにあの老人に支配されていることを悟る。

 言葉は虚しく、振りかけた粉砂糖のように、すべてを白く覆ってしまっているのだが、やがて溶けてその存在を失い、甘みだけが残るのだ。岸田は自分が書いた原稿の、何千何万という言葉がすべて虚しいことを知った。

 読んだ瞬間に消えていく言葉たちを、これからも何万と原稿用紙に書き記すのだとすれば、それは岸田の望んだことではない。

 誰かの記憶がそうさせているだけだ。

 赤い閃光はもう見えず、見えるのは同じ夢ばかり。

 いつか、老人はみつこを食うのだろう。その場に岸田はいたいとは思わない。

 とろけおちるとき、そこにいたいとは思わない。

 岸田は菓子折りを持ってきた野上公恵と、近所のカフェへ出かけた。

「お菓子をお持ちしたんですけど」

「それはみつこにあげればいい。カフェで少し話をしよう」

 岸田はこのチャンスを狙って、必要最小限のものを入れたポーチを手にし、頑丈な靴を履いていた。カーキ色のパンツは撥水性のあるコットン生地。シャツはウールのペンドルトン。アンダーシャツに体温を守る新素材。靴下は厚めの新品。

「私の目を見て」と岸田が伝えると、公恵はじっと作家を見つめた。その首にはまだ擦れて皮膚の色が変わった部分が残っている。ネクタイが切れなければ死んでいたのは彼女。

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