第4話 とろけおちる 2
「アザゼルとも言う」
ぐりっと頭の中の石たちが踊る。ダ、ダ、ダ、ダンス、ダ、ダ、ダ、ダンス……。
「アゼザルはごつごつとした岩山。不毛で人を拒む悪の象徴。簡単に言えば、悪魔」
笑いがこみあげる。乾いた咳のような笑い。
「自分が何者であるかを忘れたのは、ステキだ。そのかわり、あなたは幸之助やほかのいろいろな人の記憶を自分のものにした。あなたの中には、さまざまな人の一部が入り込んでいる。あの女は、そんなあなたが大好物なのだ」
「意味が、わからない」
「わからなくていい。ただ、私の舌が味を予知するように、私にはあなたがこれから、とろけおちていくこともわかるのだ」
とろけおちる……。いかにも甘美で、みつこにふさわしい。
「あの女は、いわば天使。あなたが無意識に発揮する悪をなかったことにしようとする。すでにそういうことは起きたでしょう? あなたが思っていない結末ですよ。彼女がそれをしている」
ネクタイを切った。野上公恵はあそこで絞殺されていたはずだ。彼女の平凡だが人に言えない記憶は、岸田のものになったかもしれない。ナイフを取り上げて自分を襲った男を刺し殺した図書館の女性。彼女が思いがけず反撃できたのもみつこのせいなのか。
では、なぜ、みつこは岸田を誘惑したのだろう。岸田を食べるため?
「あなたも、勝又幸之助の従兄弟というのは嘘ですね。何者なんです?」
岸田の擦れた声が言い終わらぬうちから、老人は肩を揺すって笑い出す。口角が上がり、鋭く尖った歯が光る。年齢を感じさせない、艶々とした白い歯。
「この世の者ではない? まあ、あなたほど自由になにものにでもなれるわけではない。ただ死なないだけ」
「血を吸って生きる」
「そんなようなもの。ただし、キリスト教を含め人間たちの宗教はなにひとつ私の敵ではないし、昼間でも夜でも活動できる。残念ながら空は飛べない」
老人はまた笑う。岸田も笑う。
「さて。私の望みもおわかりだろう?」
「みつこ、か」
「あれを喰らったら、さぞ美味いに違いない。そうは思わないか?」
大福のような女。その冷たい肌と肉を岸田は思い返す。
「食えるものかな」
「いまのみつこは、おまえに夢中だ。悪の限りを尽くしてきたくせに、なにも覚えていない。自分を誰かわかっていない。無意識でときどき人々の悪に反応し、そこに乗っかって悪を成し遂げようとしているだけだ。いまのあなたには、みつこから逃れる力はない。あいつの繰り出す愛というのは、それはそれは、しつこくて、人を無力にし、最後にはとろとろにしてしまうのだ」
岸田は、みつこと交わることを思い、熱くなってくる根を感じた。
「いま、想像しただろう? あの体を。あの肉を。あの皮を。すでにかなり、とろけてきているんじゃないのか?」
肩をゆする老人は、もう視界にない。パッと赤い閃光が広がっていく。野上公恵が、みつこと食事をしている。岸田の帰りを待っている。二人は似た者同士だと思っている。ただしぎっしりと愛の詰まったみつこと、凡庸で空疎な公恵では比べものにならないのだ。似ているとすれば、その貪欲さだろう。
岸田は、二人の欲望にゾクゾクする。みつこはどうにもならないが、公恵はなんとでもなる。
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