第4話 とろけおちる 1

 老人の名は、勝又善治郎。勝又幸之助の従兄弟だと言う。そしてあの若者、富岡が編集をやっている出版社の顧問。

「あなたが、劇作家の幸之助のわけがない。それはよくわかっている。でも、あなたの存在は否定したくない。それが私の結論です」

 彼は岸田にそう告げた。

「みつこは? 彼女は何者ですか?」

 岸田の質問に、勝又善治郎は答えない。

「女難に打ち勝つ方法は、それほど多くはありません。ああいうタイプは、粘着質ってやつでしょう。おそらく、これまでもしつこく相手に迫って逃げられてきた人生です」

「あの女に人生などあったのか」

「いやはや。女といってもあの手の人生は、確かに人の道からは大きく外れています。獣の道というべきでしょう。あれは、人を食う生き物なのです」

 気付けば、岸田の前に三本の徳利が並んでいた。酒は飲み干され、玉子焼きの最後の一片、たたみいわしの一枚が残っていた。

「私はこれでもあなたと同年齢ですよ」と勝又善治郎は秘密を明かすように、笑いながら言う。

「若い」と岸田は思わずつぶやく。

「若くはない。とはいえ、長生きしてきて驚くことは少なくなっていますが、あなたのように、何者にでもなれる、つまり何者でもない人を私ははじめて見ました」と勝又善治郎は上機嫌だ。

「幸之助はあなたのような人が好きで、いろいろと研究していたのですよ。昔の写真に、未来から来た人としか思えない人物が映り込んでいる例があるのをご存じですか。そういう怪異なことがとにかく大好きでしたね」

 善治郎は、古ぼけた小冊子を取り出した。私家版の印刷物。初期ワープロらしいカクカクとした文字が並び、ルビはあまりきれいに入っていない。一部の漢字は表示されないのだろう。カッコ書きで本来入れたかった漢字の説明を入れている。

「その作品のタイトルは『頭の中の石ころ』です」

──それを溶かしても元の記憶は甦(よみがえ、更と生)らない。なぜなら溶かした時点の現実によって一瞬にして変質してしまうからだ。大事な記憶は二度と覗(のぞ、司と見)き込むことはできない。もしも頭の中が石ころだらけになってしまったら、そのときは私は人間をやめて木になる。最初は弱々しい若木でも、数年もすれば根をしっかり張るだろう。やがて幹が太くなり、雨や風の中で何十年、何百年と立ち続けるだろう──。

 岸田は酔っている。根にどくどくと熱いものが流れていく。

「これは私が書いた」とつぶやく。

「そうでもあり、そうでもない」と善治郎が応える。

「あなたは幸之助ではない。それは幸之助が書いたものです。それでいて、あなたは幸之助でもある。これを書いてはいないが……」

「いや、すべて頭の中にある」

「あなたの中には、もっと多くの記憶がある。ただあなたは本来は、なにかを思い出すことなど滅多にしない。する必要もない。あなたは楽園を追放された堕天使」

 だてんし。だ、を定冠詞のように感じた岸田は、手を頭にやる。そこに冠があるかのように。

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