第3話 くちあたり 7

 だったら図書館でなぜ二度目の惨劇が起きたのか。同じ図書館で、やり直したのか。

 みつこの性欲は、ネクタイを千切るような奇跡を起こすことなく、図書館では長髪の男がやりたいことをやり遂げた。

 あれが幻想なら、そうはならなかったはずだ。女を刺そうとしたときに、安物の靴が安い酒と安い肉の脂ですべりやすくなっていて、手元が大きく狂い、闘牛士の横をすり抜けるように、男自身がガラスに激突していてもよかったはずではないか。

 そうすれば喉を掻き切られた警備員は、自慢の歌を口ずさみながら、背後から犯人を取り押さえて彼の最初で最後の、そして最大の手柄を成していたはずではないのか。


「おとうさん、やっと来たわ」

 みつこが紙を持って来た。

「DNA鑑定」

 九九・九パーセント。

 岸田は原稿に走らせていた万年筆を止めることなく、それをチラッと見た。

「じゃあ、なぜ交わった」

「交わった? ああ、セックス? だって愛だもの。高いところに登るためには必要だもの」

 みつこがしきりと口にしたがる「愛」のせいで岸田の脳内がざわつく。石ころの動きが止まらない。みつこの用意した万年筆のすべりは抜群によく、黒いインクを岸田の考え以上に素早く文字にして原稿を埋めていく。

「その言葉を吐くな」

「え? なに? 愛? 言っちゃダメなの?」

 きしむ石ころに押されるように、岸田は必死に自分の影を原稿に落とす。

「だけどよかったよねえ」

 またチャンネルをニュースショーに戻して、つぶやく。

 岸田の見た夢では警備員はもちろん、誰も助からない。いいことなど起こらない。

「大丈夫。みんな助かるよ」

 なにがおもしろいのか、みつこは笑う。

「はじめてでしょ」

「なにが?」

「犠牲者が出ないの」

「なにを言ってるんだ」

「わかるんだ」

 偽善者、と岸田は原稿用紙に刻む。

「生をまっとうし、この世の地獄から救われようとしている魂を邪魔して、なにが楽しいのか」

 みつこはニコニコしている。

「私たちでも産めるよ」

 そして彼女は私を押し倒す。分厚い手の平と太い指が絡まって万年筆を岸田から奪う。

「同じ遺伝子の子を産めるの」

 圧倒的な重さに岸田は動けなくなる。

「迎えにいっちゃおうかな」

 歌うように語り、語るように歌う。

 唇が岸田の唇に。生温かく、あんこのように甘い唇。

「どお? このくちあたり」

 甘い香りは、腐敗の香り──。

 みつこが原稿用紙にそう付け加えた。

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