第3話 くちあたり 6

 幻想が現実になるとき、同時に現実が幻想になっていく。みつこは岸田の現実であり、岸田はみつこの幻想だ。

 いまはそれが重なっている。岸田はそのことに気付いて、唇をとがらせた。

「起きた?」

 ふふふと不気味に笑うみつこ。体にぴったりした服。腰をくねくねさせている。

「高いところに登るとね、なにが見えるか知ってる?」

 みつこは口を大きく開けて、袋からポテトチップを流し込み、しばらくザクザクと食べていた。そして真っ黒なコーラを飲む。

「見えるんだよ、いろーんなものが」

 セリフは歌うように。歌はセリフのように。

 下手(しもて)から上手(かみて)に彼女はやってくる──。

 岸田はみつこの芝居を見せられて、口をポカンと開けている。

「味見」

 そこにみつこが、ポテトチップスをポンと放り込む。

「最近、人気の味だって」

 岸田はザクザクと音を立てて噛みながら、

樹木は、根が腐ったら終わりだ、と思う。

「あなたにも見てほしいんだ。高いところに登ってね」

「どうやって」

「簡単よ。愛し合えばいいの」

 岸田の背筋をゾワッと悪寒が走る。漠然とした恐怖がしだいに実態化する。

 樹木は愛を欲っするだろうか。岸田は原稿用紙にそう記す。

「どう思う? 愛し合うっていいよね? いいことじゃんよね!」

 菓子を食べ、ペットボトルのコーラを飲み、テレビのチャンネルを変え、指を舐め、髪をいじり、チャンネルの変え、スマホをいじり、菓子を食べるみつこ。

「素敵だと思わない? おとうさん」

「みつこ、やっぱりお前は娘なんかじゃないんだな」

「なに言ってるの。おかしいこと言うわ。娘に決まってる。それに娘とやった父親なんて、古代から珍しくないし」

 岸田はふと新聞に目を落とす。そこには、AB賞で有名な文芸誌「不来」の編集長が社屋の屋上から飛び降りて自殺したことが小さな記事になっていた。遺書はなかったという。花村という名だった。

 不来、フライ、フライング、ダイビング、ダイイング。

 それにしてもどうしてネクタイがちぎれたのだ。

「そうそう、あの人、死んだね。電話があったのよ、出版社から。新しい編集長と今後についてご相談にうかがいますって。葬儀とか終わってからだから、半月ぐら先だけど」

「知ってたのか」

 みつこは笑って、その肉まんのような拳を私の目の前に左右揃えて、音がきこえそうなほどぶつけたあと、ゆっくり離していった。なにかをひきちぎるように。

 岸田は、あのネクタイをちぎったのがみつこであることを信じたくなかった。快楽をもたらし、岸田に実態を与え、原稿を与え、幻想を現実にさせているのがみつこだと認めたくない。

 石ころがギリギリと音を立てて動く。

 確かに、未成年のときにレイプされ、援交を強要された女性編集者に殺させるのは理不尽だ。それに比べれば、長年、人間としてどうかと思うようなことを続けてきた編集長の自殺は自業自得だ。

「いや、しかし、なんということだ。なんというつまらなさだ」

 岸田は、理不尽を奪われたことを知った。

 みつこに奪われたのだ。

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