第3話 くちあたり 4
やめて。なにしてるんだ。こんなところで。おまえは誰だ。なにをする。この野郎。おとなしくしろ。警察を呼べ。救急車を呼べ──。
なぜだ。ナイフの刃先が吸い込まれるように女のわき腹にめり込む。悲鳴。引き抜く。血が服に黒いシミを作る。
「前は失敗したけどな、今度はほら、これだ。これだぞ。見ろ!」
血がびゅーっと噴き出す。
女がどさっと床に倒れた。
警備員にも刃先を向けた。倒れた女を支えるように不用意に駆け寄ってきた。ナイフはスパッと老いた警備員のしわだらけの喉を切り裂いた。
それは勢いというものだろう。その男にナイフを扱う心得があったわけではない。運動神経も大してない。あらゆる能力が大したことがない。だからそこにいたのだ。
がむしゃらにナイフを振り回すと、警備員は前のめりに女の上に倒れていった。
喉がもうひとつの口のように開いていた。
カラオケで津軽海峡を歌うのが楽しみで若い頃に地元でのど自慢に出たのが唯一の誇りだった男の喉を破壊した。
祝福するように血しぶきがあたりを染める。
人間としては老境に入ろうという年齢の警備員でも、心臓はいたって丈夫で、動脈からの噴射には勢いがあった。
それが倒れた女の骸に降り注ぐ。
雨だ。
血にまみれた男は、ナイフを振り回し、なにかを叫びながら動く。じっとしていられないのに、どうしていいのかもわからない。
逃げる人々。
閲覧室へ突っ込んでいく。新聞を読んでいた男の背中をメッタ刺しにし、止めに入った、岸田にも見覚えのあるヤツを殴りつけ、倒れたところを馬乗りになってナイフに血を吸わせ続けた。
「またかよ!」
それが背中を刺された男の最後の言葉だ。
以前、ナイフを持ったホームレスが女性職員をトイレに連れ込んで、反対に殺された事件を思い出しているのだ。あのときも、新聞をここで読んでいた。
彼が自分の名が掲載される新聞を読むことはない。
ナイフは水飲み鳥のように血を好むのだ。飽きることなく……。
雨が地面に染み込んで、ぐねぐねと張り巡らされた根へ養分を届ける。
そんな幻想に浸って気付くと、熱く汗を流し夢精していた。それもペットボトルを倒したかのように大量に。
「先生、寝てて」
裸のみつこが布団の中にいて、汚れた下半身を舐め回していた。
暴力的な夢は現実的ではなく、娘だと言う女の行為は現実なのだった。
「男だわ」とみつこは笑う。
父ではなく男。
「おまえ」
岸田は枝のように細い指でみつこの髪をまさぐる。大きな肩。二重顎。首筋のたるみ。手にあまる乳房。三段腹。脂肪の冷たさ。肌の温もりよりも、鎧のようなその体の冷たさが心地良い。大福餅。
幻想と幻想の交わり。
岸田の腹がうねり、笑いがこみあげてくる。
「ごほっ」
咳にしかならない。
なぜ彼女はこれまでの自分を捨てたのだろう。
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