第3話 くちあたり 3

 岸田修造は、そこまで書いた原稿を、目の前にいる若者に見せたい衝動にかられたのだが、原稿用紙をまとめて裏返した。

「やっぱりそうだ。勝又幸之助先生ですよね!

まさかとは思ったのですが……」

 若い編集者。三十代の元気のいい若者で、しっかり長期休暇を取って南国で楽しんで来たらしくココナツの香りがする。日焼けした若者とは対照的に、もやしのように白い老けた男を連れている。そこだけ、空気がヒンヤリしている。

「作品を拝読し、記憶をなくした方が書いているというので、もしやと思ったのです。私、劇団そこかしこのファンだったんですよ! オーディションを受けたこともあったんです」

 岸田は裏になった原稿用紙の上に、富岡正幸の名刺を置いた。

 老けた男は、懐かしむように目を輝かせていた。

 劇団そこかしこ──。

 ダサイ名だと岸田は感じながらも、その言葉が自分にまったく響かないので、むしろ「どうしてネクタイが切れたのか」と不思議に思うのだった。

「初演の『満開の夜桜の下──樹木騒乱』を拝見して一発でファンになりましてねえ。学生時代の話ですけどね」

 樹木騒乱。

 その言葉が、わずかに岸田の中に響く。

「下北沢に入り浸りでした。それにしても、あの小さな劇場、毎回入れなくて何度も並びましたよ」

 岸田は、「勝又幸之助先生」について熱く語る富岡を見つめたが、言葉も表情も出ない。

「それで」とみつこが沈んだ声を出す。「出版の方は?」

「AB文学賞の方とは別に、私どもからも出していただきたいのです。それも筆名を、勝又幸之助先生でお願いしたい。復帰第一作。あの演劇界に旋風を巻き起こした天才劇作家が、三十年のブランクを経て突如小説を書き下ろした!」

 どこの馬の骨ともわからない老人。記憶を失って彷徨っていた人間が、突然、次々と作品を上梓。それがおもしろいとネットで評判になり……。みたいなストーリーを岸田はボツにしたくなった。

「私は勝又ではありません」

 はっきりとした声に、みつこも驚く。

「ええっ!」

 のけぞって驚いているのは富岡だけだ。少し遠くから見ている老人は笑顔のままだ。

 そんなことのあった夜……。

 赤い光は瞬くように、真っ黒な天井に幻想を映し出していく。岸田は、その幻想を頭の中の石ころの隙間に詰め込んでいく。

 長髪の男。雨の中で八時間立ち尽くした経験があるに違いない。彼は若く力があった。何か仕事を手伝い一万円も手に入れると安い酒を買い安い焼き肉をたっぷり食べるのだ。酔って臭い息を吐き、吸い寄せられるように図書館へ向かった。

 理由はわからないが女性職員に入館を止められた。いや、その女はにこやかにカードの案内をしていただけだ。

「図書館利用カードをお作りになりませんか?」

 男は逆上し女を突き飛ばした。ガンと大きな音を立てて女はガラス戸にぶつかる。よろけ、恐怖を感じ、パニックになっていた。

 警備員とほかの職員が走ってくるのを見ると、女の腕を取って引き寄せポケットからナイフを出した。

 いろいろな声が上滑りしていく。

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