第3話 くちあたり 2

 この卑怯な男は、公恵の読書体験の浅さ、知恵の浅さ、考えの浅さを見抜いていたのかもしれない。

 それから娼婦のように、公恵は編集長のためにあらゆることをしてきた。

「妻とは別れる」と最初から花村は彼女に約束していた。それを公恵が頼んだわけではない。勝手に約束したのだ。

「おまえと一緒に暮らしたいんだよ。本当の夫婦、人生のパートナーとしてね」

 そんなものを卑劣な男が求めているはずもないのだが、公恵はほかにすることもないので、信じてみた。

 高校を卒業し、付属校なので大学へ進学した。公恵は学生としてよりも、女としてより多くの日々を過ごした。

 交際というには関係は長すぎ、深すぎた。痛みや恨みは、どれだけ長く付き合ったところで、愛情に変換されることはなかった。だったら、なにかしてくれ。なにかくれ。

 代償はいくらあっても足りない。公恵の心を豊かにすることはなく、むしろさらに蝕んでいく。

 だから編集長は黙って自社に採用すべく内定を出した。妻も会社もそして公恵も、さらには自分の職業さえも裏切る行為なのに、それを最高の施しだと信じたようだ。

 公恵は一緒に働くようになっても、まったく満足しない。代償はまだまだ足りない。

 ある夜。

「いつなんですか。いつ離婚するんですか?」

 そう問いかけようとしたとき、首にネクタイが巻き付いてきた。

 彼は馬乗りになって、公恵の首を絞め始めた。彼女は全身に力が入り、体内からさっき注ぎ込まれた男のものを床にこぼしていった。

「うるさいんだよ、しつこいんだよ、仕事まで世話したのにいまさらなんだよ」

 男の力は容赦がなく、女は気が遠くなっていった。死ぬ前に走馬灯のように人生を振り返るという。

 なんにも浮かばない。口の中に土の味が広がって、根っ子のようなものが自分を締め付けている幻想にとらわれた。地面から出てきた木の根にからめとられ、このまま地中に引きずり込まれるのだ。そして自分は樹木の栄養となっていく。カサカサの樹皮の一部になっていく……。

 そのとき、ブチッと音がして急に息ができるようになった。

「やめて!」

 声を上げて、その勢いで立ち上がった。

 馬乗りになっていた編集長はぶざまにひっくり返っていた。

 まずあり得ないことだろう。ネクタイがちぎれるなどということは。

「おおおおお」と花村は、おののいていた。女を見上げるというよりも、怪獣でも出現したかのように。腰を抜かしたエキストラ。

「お前が死ねよ」

 公恵は黙って自分のスマホを手にすると、ぶざまな編集長の裸体を撮影しはじめた。

「や、やめろ、なにするんだ」

 それは不思議と、生まれたての子が産湯をつかっている姿に似ていた──。

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