第3話 くちあたり 1

「別れる。必ず別れるから」

 ぶよぶよの腹をゆすっている男、花村なんとか。名前などどうでもいい。彼をそこに立たせているのは編集長という肩書きだけだ。その足元で野上公恵は泣くふりをしている。

 公恵を、毎年一人か二人しか採用していない編集部に入社させたのは、花村という男が、この数年、公恵が学生で未成年だった頃から肉体関係を続けてきた代償だった。

 花村はそれを自分が手に入れた特権かのように思っていたに違いない。公然と勤務中に浮気ができる。それによって、常に緊張を強いられている彼の立場が補強され、理不尽な状況にも耐えられるのだ、と信じているらしい。

 公恵は、本は好きな方ではあったが(だから編集長の登壇するセミナーに足繁く通ったのだが)、文学であるとか小説に特別な思い入れはなかった。たまたま手にして楽しかった本、読んでいることで少し勉強をしているかのように思われる本、あるいはひねた人間だと見られる可能性のある本を大事にしていた。

 本は彼女の遊び道具でありファッションアイテムだった。ほかにそれに匹敵するものを彼女はなにひとつ、手にしていなかった。家庭、成績、容姿、教養、性格。どれをとっても凡庸で、成績上位ではあったものの彼女を他と比較して選択する理由は見当たらない。

 そのことを誰よりも公恵がよく知っていた。

 花村は、編集長の肩書きを気に入っており、溺愛していた。編集長であるのだから、公恵のような小娘を救えると思い込んでいた。救うとは、要するに自分の思い通りにすることで、肉体関係が生じれば編集長の威光が公恵にも浸透し、彼女にとって夢のような未来が得られるに違いない、自分はその扉を開いてやるのだと本気で思っているらしかった。

 公恵はそれに合わせた。花村によって本当に自分は特別な存在になれるかもしれないと夢を見た。

 花村ははじめて公恵を自分のものにしようとしたときに、アルコールの力を借りた。いや、正確にはアルコールに溶かし込んだ睡眠導入剤の力を借りた。

 睡眠導入剤は最初妻が手に入れ、睡眠で苦しんでいたときに彼も使って、その後、病院で処方を受けていた。

 薬の溶けた酒は悪魔のように強く、彼女の記憶を消し去り、肉体に爪跡を残した。

 公恵の人生は一変した。

 夢は悪夢となった。大きな負を背負い、それを償わせるべき相手にはとことんつきまとうしかなかった。もう少し多様な本を読み、さらにいくつかの作品を深く読んでいれば、彼女は別の考えを持ったかもしれない。

 そもそも花村と酒を飲むような機会を、好機だなどとは思わなかったはずだ。

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