第2話 あじわい 6
「『図書館に一秒』ですか。素敵なお話ですね。わたし感動しました」
野上公恵。蜜の香りのする若い編集者はみつこの横にぺたんと座っていた。薄笑いを浮かべているのだが、丸いメガネに阻まれて目をちゃんと見ることはできない。髪がパラパラと薄く、脂っぽい。ブラウスの襟は少しよれている。なぜか、安物のスカーフを首に巻いている。
キヨスクでスカーフを売っているのだろうか。
岸田は、彼女から蜜の香りの影に精液のニオイを感じていた。謎ばかりふくらむ。
座布団に沈み込むように座っている野上は、気だるげな表情だ。
「タイトルの『図書館に一秒』は、おそらく編集部でもそのままで行こうということになると思います。賞の発表前に書店に並びますから、きっと話題になります」
賞を取って本にするのではない。賞の発表前に出すというプランを野上が持ってきた。賞という幻想を求めず、現実を求めるのだと岸田は理解した。
「先生の本を一刻でも早く、多くの人に読んでいただきたいからです」
優等生の言葉の一つひとつが、花村編集長を否定しバカにしている。「えーびー賞でふらい、エビフライって。笑っちゃいますよね、ガハハ」と闇の深い目で嘘の笑いを放つ花村を。
「正直に申し上げます。私たちの編集部では、先生の本は今世紀最大の話題作になると考えております。受賞は間違いないとは思いますが、受賞しなくても話題になることも間違いないことでして……」
賞味期限切れになる前に出したい。多少なりとも話題があるうちに売りたい。八年ぶりに発見された記憶のない男と、大福餅のような娘の奇跡の物語。それが色褪せないうちに、「ああ、あの」とか「へえ、これが」と言われるうちに売り抜けたい。
現実を選んでおきながら、幻想にすがるのかと岸田は、ほんのわずか口角を上げる。
「初版は五千部ですが、書店の期待も大きく、すぐに重版となることでしょう」
「それで、印税というんでしたっけ、それは?」とみつこ。
私の興味のない話をはじめた。足し算と引き算と掛け算。
「そんなに……」
一冊の印税が百円で、五千部なら五十万。それだけのこと。秋になればイチョウの葉は黄色くなっていく。そして落下する。それが摂理。
高く枝葉を伸ばせば、きれいに落下する。
岸田は銀杏のニオイを嗅いでいた。
「懐かしい」
いまなら樹木になれるかもしれないと期待している岸田を、野上もみつこも無視していた。岸田はときどき聞き取れないことを言う老人だと思われているに違いなかった。
帰っていく公恵の背中に、赤い光が瞬いた。岸田は、はっきり笑みを浮かべた。
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