第2話 あじわい 5

「なかなか大したものです」

 編集長と編集者。

 四十代後半の編集長は真っ白さにおいてみつことよく似ていたが、狡猾な目つきにより深い闇がうかがえた。

 花村宗一と名乗り岸田に名刺を渡す。これ以上は太れないと思えるほどまん丸の体型。 その横に、メガネをかけた痩せた女。大学を出たばかりのような初々しさを、あえてそっけない紺のスーツと地味な化粧で消そうとしている。

「野上です」と名刺を差し出す。

 野上公恵、という文字を岸田は見つめる。

 岸田は不浄な精液のニオイを感じて彼女をにらんでしまう。だが、彼女からは甘いハチミツの香りがしていた。公恵の目は沈んでいた。諦念の振動を発していた。

 精臭は花村から漂っている。汗と脂と欲望と。

 欲望と諦念の組み合わせは、悪くないと岸田はほんのわずか口角を上げた。

「AB文学賞は、いまや日本の文学界では話題の賞ですが、ご存じの樺谷浩介先生が、平成元年に例のベストセラーの直後に創設しまして、私どもの出版社でそれを支援する体制となったのです」

 岸田は何冊か、出版社が寄こした本のことを思い浮かべる。電子書籍だった。

「このパソコンじゃ開けないわ」とみつこは断じて、それきりになっていた。

「えっとね、私が読んでみたけど、男の人が歩いていたら躓いて転んで、穴に落ちて、そこで知り合った女の人と子供を作るんだけど、その子が穴から出て渋谷のスクランブル交差点に出るわけ……」

 みつこの要約は意味をなさなかった。みつこは底が浅すぎて、あらゆるものを理解することなく咀嚼して排泄するのだ。そのパワーはすさまじく、岸田はいつ自分が咀嚼されてしまうのかと怯えるしかなかった。

 図書館にはあれから行っていない。行くのが恐ろしいのだ。枯れ木から緑の葉が生まれる可能性はあっても、塑像になったら最後、二度と樹木には戻れない。いま図書館に行けば塑像にされてしまうのではないか。

 無価値と不可知の違いだと岸田は感じる。

 今度図書館に行くときは、再び頭の中が乾ききった石ころだけになったときだ、と。

「あんな場所には、一秒といられない」

 岸田のつぶやきは、そこにいる三人に届いたはずだが解釈されず消えていった。

 だから、樺谷のベストセラーも、過去の「話題の」受賞作も知らない。その樺谷のこともAB文学賞のことも岸田はまったく興味を持てずにいた。

「おかげさまで、毎年、この賞は期待されておりまして、売れ行きもいいのです」

 みつこの話では、この出版社はなにかというとこの文学賞に頼り切っていて、賞を中心にした同社の文芸雑誌を少しでも若者に近づけたいと、それまでの『文学未来』という誌名を「不来」にしてしまったのだ。

「微妙よね。未来を不来にする。ミライをフライにしちゃうわけよ。おまけにさ、AB賞って……。えーびー賞だから、不来。海老フライよね。これ、マジ?」

 それはどうせみつこのデタラメだと思っていた岸田だったが、そっくりのことをいま目の前の花村編集長から語られるとは思いもよらなかった。

「受けるでしょ」と花村は、苦い薬を飲んだような笑みを浮かべた。

 野上公恵は白いハンカチを口元にあてて「こほっ」と軽く咳をした。笑ったのではない。むせただけだ。花村のことを丸々否定していながら彼女は蜜の香りをまとって、蜂に刺されるのを待っている。

 幻想と現実が行き来している光景を岸田は科学者のような目で見つめていた。

「ねえ、私のおかあさんって、どうなったの?」と花村編集長と編集者の野上が帰って二人きりになったとき、みつこは言うのだった。

「え?」

「おとうさんに会えてホントにうれしかったし、おとうさんが思った通りの作家だったからすごくうれしいし、しかも売れない作家じゃなくていきなりすごい文芸誌に掲載されて、たくさん原稿料もいただいて。今度は文学賞の候補にもなるなんて、夢みたいなんだけど。やっぱり、これだけは聞いておかなくちゃいけないと思って。本を出すでしょ。そのプロフィールにも書きたいし」

 岸田にはなにひとつ、思い出せない。樹木だった頃、自分がなにを見て感じていたのかも思い出せない。すべての過去が石となり、そこからじわっとなにかが染み出すだけだ。

 岸田には自分がみつこや花村や野上のような人間である実感さえない。人間の営みによってみつこを授かったとしても、それはもはや人間の営みではないし、みつこもこの世のものではないとしか思えない。

「おまえは、人間、だよね」

「きゃはっ、なにそれ。決まってるでしょ」

「ということは……」

 岸田は言葉を飲み込む。

 みつこがこの世のものである限り、私が父であることもない──。

 そんなことをいま言えば、恐ろしいことが起こりそうだった。

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