第2話 あじわい 4

「すごいね」

 みつこはあきれていた。

 彼女が放置していたパソコンで、岸田は文章を書き上げていた。

「思い出すわ、あの日」

 みつこは千円以上する洗剤を使い、柔軟剤を使い、漂白剤を使う。洗濯機を何度も回す。部屋のあちこちを除菌シートで拭く。美しいピンクの外観に合わせたかのような、ピンクの壁紙。濃い茶のフローリング。家具は少なく、カーテンは分厚い真っ黒な布地だった。

 少ない家具の一つ、パソコン机を岸田は占領していた。事務用の青いクッションのイスが岸田には心地良かった。

 マウスやキーボードを除菌シートで拭くみつこ。

「ごめんね、おとうさんのせいじゃないんだ。あたし、潔癖症ってやつで、子供の頃からこうなの」

 彼女は自分のスマホも除菌したがる。

「またメールが来てる」

 パソコンはネットにつながっていない。みつこのスマホはネットにつながっている。その気になれば無線LANを入れられる部屋だったが、みつこは、その気にならなかった。

「おとうさん。すごいよ。メールが来たんだけどね、この間の作品、AB文学賞の最終候補になったって。もう少し詳しいプロフィールを寄こせって。おとうさんが面倒なら、私が書いてもいい?」

「うん」

 岸田の返事に、みつこはうれしそうに笑う。

 岸田の書いた『におい』と題する作品が、みつこによってネットに投稿され、AB文学賞を主宰している出版社の編集長につながり、どうしても原稿用紙百枚ぐらいにできないかとやり取りがあり、岸田がそれを提出すると編集長は喜んで「文芸雑誌 不来(ふらい)」に掲載し原稿料を振り込んだ。

 図書館での出会いから三か月経っていた。厳しい冬は過ぎ、穏やかな春がやってきた。 緑が濃くなっていき、樹木はイキイキと葉や花をつける季節。

 その間、みつこは岸田を病院に連れていき、健康診断から脳の精密検査、精神の検査までしていたが、健康状態には特別な問題はなかった。

 記憶だけが、ごっそり抜けている。

 みつこは岸田という名を調べて、これまでの足跡を辿ろうとしたのだが、うまくいっていない。地元の役所の福祉課、警察などを回っても図書館で出会う前の岸田が、どこでなにをしていたのかわからない。

 岸田ではないのではないか。みつこはこの過程で出会った人から、そう助言されていた。岸田でなければなんなのか。

 みつこの本来の姓名からも辿ろうとしたのだが、それはこれまで行方不明だった彼を探すために散々やってきたことだった。

「こんなにくれたんだよ! すごいよ、おとうさん!」

 岸田は、そこまではしゃぐみつこの底の浅さに震えた。「おとうさん」と軽率に声をかけてきて、彼女の幻想か現実かよくわからないものを岸田に押しつけてきて、彼女の現実の中に閉じ込めようとしている。

 カネはどうせ、洗剤や漂白剤や除菌シートに消えていくのだ。それがみつこだ。

「大福女。おまえはまだわからないのか。私が発するニオイは、ただのニオイではないのだ。風呂に入って清潔にしたとしても消えることのない樹液。そう、どろどろした膿が発している幻覚なのだ」

 岸田の震えは、ぶつぶつと低い音声になって空気に伝わっていく。

 みつこは笑って受け止めて「それも、書いて」と言う。「うんと、稼いでね。おとうさん」

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