第2話 あじわい 2
「ちくしょう!」
彼女は頭に来て、男にナイフをぶつけた。完全な勝利が欲しかった。これまでの人生で一度も味わったことのない、確たる勝利。
それがいま、手の中にあった。
。男は呼吸を取り戻しつつあり、起き上がろうとしていた。その左の胸に深くナイフが押し込まれていた。
きつい書棚に本を戻していくように、ナイフは最初からそこにあるのがふさわしく、きっちりとはまり込んでいった。
彼女は興奮した。ナイフを引き抜くと祝福するかのように血しぶきが盛大に噴き上がる。
やった、勝利。これが勝利。
腹部にも数回、感触を確かめるように突き刺していた。
あたりは血の臭いで満たされた。
「おとうさん、もう行きましょうか」
大福女がじっと岸田を見上げていた。見つめれば、岸田の中の石が溶けて、なにかしら温かいものが流れ出てくると期待している。
チョコレートファウンテンに口をつけるような甘い感触を期待している顔。
「樹木になりたい」
岸田はその目に告げた。
「じゅもく?」
枯れ木はダメだ。樹でありたい。雨が降っても風が吹いても、そこにどっしり立っている。誰も「どけ」とは言わない。食事もトイレも風呂もいらない。完璧だ。この世で生き抜くには樹木になるのが一番だ。
岸田はいま、そうなりたかった。
「樹木になれば現実は関係ない。きっと時間とか歴史とかを無視できるだけの、たっぷりの幻想や幻覚が詰まっているんだ。大地に根を張って、幻の一滴一滴を吸収し、それを枝にしたり葉にしたり、アロマにするんだ。なんて素敵なんだ。樹木が素敵なのは幻で生きているからだ。どうして私は樹木じゃないのか」
「それって、お芝居かなにか? セリフなの? シェークスピアみたいな?」
枯れ木の声は届かないのか、と岸田は一瞬、冷たい目になった。
誰かに岸田のことを話したくてしょうがなかったみつこは、警備員や警官たちに、八年ぶりに見つけた自分の父のことを訴え続け、逃げ場のない人たちに実弾を撃ち込んで穴だらけにしていた。
心を撃ち抜かれて、間違った感動を共有する彼ら。みつこの身分は証明され、ようやく放免となるに違いない。
テーブルとパイプイス。
この二つがあれば、無数のコントができる。岸田は、およそ百ぐらいのコントを思い浮かべた。正しい者が演じれば、きちんと笑いを巻き起こす。その幻覚は現実のはずだ。
「笑いの中にこそ、幸福がある」
つぶやいてみた。
「そうよ、もちろん、そう。おとうさん、お芝居をしていたの?」
急ごしらえの暖房機器が、岸田の濡れた服を乾かし、ほかの警備員たちの濡れた服を乾かし、独特のニオイを充満させていく。
「作用と反作用の世界が、いま復活しようとしている」
岸田は自身にもわからない言葉をつぶやいたのだが、みつこは、うんうんとうれしそうに丸い顔を上下に動かす。
若い警官が二人、「一緒に行きましょう」とみつこに告げた。コントは始まる前に終わってしまった。
「ありがとうございます」
冷たい外。雨の中、パトカーに乗せられた。
サイレンは鳴らさない。
「しかし、驚きですね。八年も……」
「はい。私、すぐそこに越してきて六年ぐらいになるんですけど……」
みつこと警官は虚ろな人間関係を築きつつあった。この二人がやがて恋人同士になるとか、結婚するとか、双子を授かるといった展開は必要だろうか、と岸田は考えた。まったく不要な展開だ。可能性がわずかにあるというだけで、そこに意味を持たせる必要はない。岸田は警官を塑像の一つとして受け入れた。
「光を伴わない幻想は現実とは交わらない」
その言葉は誰の耳にも届かなかった。
「樹木になりたい」
少し声を張った。警官にもみつこにも聞こえたはずだ。
「じゅもく?」
理解されず、無視された。
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