第2話 あじわい 1
「はい。間違いありません。八年前に行方不明になった父です」
「ええっ」
白髪の警備員が驚き、岸田の顔をまじまじと眺める。
「八年、ですか……」
みつこは、岸田の作業着の袖を握りしめて、近くにいた警備員に事情を打ち明けはじめたのだった。
雨は密度がやや粗くなり、空は先ほどよりは白っぽい光が増していた。かといって止む気配もない。すでにやる気は失せているのに、きっぱりと止めることのできない人生。
図書館では、事件が進行して騒ぎが拡大している。メディアが駆けつけて、二人は初老の警備員に促されてさらに遠くまで追い立てられていた。
みつこはその警備員にすがるように訴えている。
「ここでいま、見つけたんです!」
事件とは関係なく、しかも他人にとってはどうでもいいことなのに、警備員は自分のことのように耳を傾けている。深く刻まれた皺。日に焼けた肌。目尻の刻みの多さは、笑顔を強いられた生涯を岸田には連想させた。塑像というものは、枯れ木に比べると固く中までぎっしり詰まっている。
「なにも思い出せないんですか?」
みつこのすがる目。
「思い出せません」
岸田は、むしろ新たな石を飲み込むように言葉を発した。
自分の声が虚ろだった。
それは雨によって流れ去っていった八年なのだろうか。岸田には手掛かりさえ見つからない。
「じゃあ、こっちに来てくださいよ」
警備員はお節介にも、図書館の隣りにある集会場へ、二人を連れて行った。
そこに臨時の警備員の休憩所が設置されていた。
「樹木になりたい」
おお、声が出た。思ったより擦れ、小さいが、誰かに届いたはずだ。
その間、みつこはスマホで電話をしたり、身分証を見せたり、なにかをしきりと警官とやり取りしていた。
「派遣の人らしいんですよ。ええ。受付係」と誰かとやり取りをしている若い警備員。ほかにも数名いて、休憩所なのに休まるところがまるでない。
名も知らぬ受付係の女性だったのか。岸田は思い浮かべる。三十後半ぐらい。おそらく結婚に一度失敗していてもおかしくはない。
「はあはあはあ」
耳元に臭く熱い男の息を岸田は感じる。
「こっちだ、こっちに来い」
発音に必要な歯が無いらしく、シューシューと息が漏れている。
こんな男に殺されるのか。彼女は恐怖を通り越し、惨めだった。許されざる惨めさ。岸田にもかつてはあった気持ちかもしれない。
男に引っ張られて多目的トイレに連れ込まれていく間、妙に冷静で、そのドアが閉じたら終わりだとはっきり自覚していたに違いない。
岸田にはこの雑然とした休憩所に座っている意味は見つからない。雨には濡れずに済む。そしてなにかが流れ込んでくるのを、ゆっくりと呼吸しながら感じることができていて、それはこのところ得られなかった幸福感なのだった。
殺される。血が噴き出す。それが岸田には幸せなのだ。
首元にある汚らしいナイフが見える。汚れ、錆びている。彼女はそのまま男を背後に、体重を預けて倒れ込むように押し込んだ。
そんな動作がとっさにできたのは、彼女が惨めさを極端に嫌っていたからだ。そんなものは自分の世界にはないもので、受け入れられないのだ。
ナイフの位置が目の近くにあり、いつしか首に当たっていなかった。
ガツンと音がし、授乳用のベッドに男は思いきりぶつかっていき、今度は呼吸の出来なくなったのは男の方だった。
気づけば、彼女は目の前のナイフを奪っていた。
「な、なんだ、おまえ」
彼女がカチンと来たのは、男がヘラヘラしていたからだ。呼吸できずに、前歯のほとんどない口を開いて、笑っていた。
この男、自分を襲っておいて、殺そうとしていたのに、笑っているのか……。
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