第1話 におい 5
既視感にふいに襲われる。救急車を呼ばれたときもこんな感じの女がいたかもしれない。あるいは病院にも。
「お名前はなんですか? 今日が何日かわかりますか? この指、何本かわかりますか? 見えますか? しゃべれますか? 聞こえますか? 生きてますか?」
「ここにいたのね」
女の声は雨音を圧倒していた。岸田の耳には深く染み込む声だった。
なにも食べていないので吐くものはなかった。大量の中華料理を嘔吐できればよかった。フルコースを吐きたい。前菜は北京ダック。クラゲ。棒々鶏。そして蒸した魚が運ばれ、豚の丸焼きや、酢豚や豚まんや東坡肉やフカヒレやあんかけ炒飯や杏仁豆腐が、胃の中で渾然となったものを大福女に見せてやりたい。
おまえの中身はあんこだろう。私は違うぞ、と岸田は声に出さずに吠えた。
「なに? なにを言っているの? 聞こえないの」
岸田は、彼女を知らない。娘がいた記憶もなかった。人間であった記憶さえも。
サイレンが近づいている。周辺には大勢の人が集まっている。傘、傘、傘の群れ。
警官も増え、組み立て式のバリケードを作った警備員たちは、野次馬が建物に近づけないようにしている。
「わかる? みつこ。わたし、みつこ」
事件とは無関係に、女は岸田に声をかける。
みつこ。満子か。光子か。美津子か。字はいろいろ浮かんだものの、岸田にはどれも自分と関係のある名前とは思えなかった。
彼女は背が低く、傘は小さく、背中は丸く張り出して完全に雨に濡れている。
この状況になんの関心もない。
ただ岸田だけに注目している。
「なんだ。なんなんだ」
岸田はようやく声を発した。
嗄れた声。喉が痛いのだろう、ガラガラと妙な音を発し、痰でも吐くようにしたのだが、なにも出ない。
「みつこです。覚えていませんか?」
そこまではっきり言ったあと、彼女は確かめるように岸田の顔を覗き込んだ。
「行きましょう、おとうさん」
すぐ近くに警官も警備員もいる。
「あの、ちょっと」とその人たちに声をかけたところで、聞こえないようだ。
みんななにかに夢中だ。
岸田は頭の中で石がゴロゴロしているような気がしていた。言いたいことはあるが、言葉はどこにも出ないまま石ころの隙間に詰まる。それが痛い。耐えられない。
みつこと名乗る女は、うれしそうな表情をしている。
ぷくぷくとした頬。細くなる目。涙を浮かべて微笑んでいる。
「もう大丈夫。大丈夫だからね」
濡れた指で岸田の手を握った。
大福女は柔らかい。舐めたら甘いだろう。
岸田の中の石ころが、騒ぐ。
「おとうさん、食べてもいいのよ」
その手を囓ると、中からアツアツの黒いこしあんが出てきて、口の中は焼けどしそうになる。あまりの甘みに陶然となる……。
「どうしたの?」
図書館の前から少しずつ追いやられている。ガラス窓の向こうでは、警官たちがトイレの前でなにか騒いでいる。
「こんな近くにいたなんて。ホント、びっくりだわ。何年、探したと思うの」
「それは」
ようやく岸田は声をみつこに向けた。
「それは、私のことですか? なにかの間違いではありませんか?」
「ええっ!」
みつこは、涙を流しながら驚愕し、岸田を化け物のように睨んだ。
「ホントに? 思い出せないの?」
傘をふりまわす彼女のせいで、岸田もいつしかびしょ濡れになっていた。
カッパを着た小学生がすべって転びそうになり、母親は手をしっかり掴んでそれを支えたのだが、岸田も手伝おうかとそっちに行きかけて、とても手が簡単に届くほどは近くはないと気づいた。
「やめてください!」とその母親は言葉にはしないが、鋭い目を寄こした。
石ころからじわっと膿のようなものがにじみ出て、頭の中を少しだけ湿らせていくのを岸田は感じ、背筋がゾクッとした。
ガラス窓の向こうでは、いったん閉じていたトイレのドアがゆっくりと開いていく。
人々が後じさる。
その向こうに、血まみれの女が立っていた。錆びたナイフを手にして……。
「きゃあああ」
悲鳴の共鳴。
ナイフを持った男が職員の女をトイレに連れ込み、ドアが閉じ、しばらくしてドアが開くと手品のように血まみれのナイフを手にした女だけが出てきたのだ。
岸田は、笑っていた。
軽く甘い香りとともに、赤い光が見せた幻影が現実となったとき、喜びを感じたのだ。
「うちに来て。お願いだから」
みつこを悲しませたくないと、岸田ははじめて思った。
彼の中でなにかが蘇り、喜びのダンスを踊りはじめた。
「この石ころがすべて溶けたとき、私は私になってしまう!」
言葉がつぎつぎと出てくる。雨音に消されてみつこにまでは届かない。
「もし私が私になってしまったら、どうやって生きていけばいいのだ! この大福女め。おまえごときに、そんな大それたことをする権利はないはずだ。いや権利があったとしても、それは薄い紙に薄いインクで書いた文字のように、光に透かせばないも同然。紙を梳くときに偶然できたシワにすぎぬ」
「なに? 聞こえないんだけど」
「舞台中央から下手に駆ける。大福女は恐れて逃げる。舞台の袖へ。スポットが私だけに当たる。ピアニッシモ! 下手はピアノのある方だ。すべては幻なのだ。気にせぬことだ」
「え? ぜんぜん、わからないんだけど」
岸田はまだ笑っていた。
「行こう」
「はい!」
彼女はうれしそうで、強い力で私の手を握りしめた。
二人は、下手へとはけていく。
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