第1話 におい 4
「歩きながら死ぬことはあるのか?」
「どういうことだよ。歩いているうちは生きているよね」
「ああ、そうだ。だけど腹が減って、血液がドロドロになってしまったら歩きながら死ぬだろう。血が生コンみたいにだんだん固まっていくんだよ」
「厳密には死んだときには歩いていない」
「いいや、歩きながら死ぬ」
アキレスと亀のような会話。
それも軽い幻覚だ。昔の軍人が雪山の中でひたすら死んでゆく映画のように。
岸田たちをどこかへ連れていこうとする連中も世の中にいる。水没したねぐらにやってきた彼らは、うれしそうに言う。
「付いてきてください。ぐっすり眠れますよ。これが神のお導きなのですよ」
何人かは付いていったが、岸田は行かなかった。
「行けばよかったじゃねえか。ふっかふかの布団。あっつい風呂。アジフライ定食にたくわん三切れ。炊きたての飯だぜ。食後はみかん一個とかチョコレートとかもあるってさ」
妙に具体的なウワサだからあてにならない。
見てきたようなウソをつき──。
図書館へまた目を向けた。館内で、妙な動きがあった。
警備員もそのときようやく岸田ではなく、館内へ注意を向けた。
先ほどの男はトイレに向かうのではなく、女職員の背後から手を回している。馴れ馴れしい。男は小柄で、女職員に手を回しても回りきらない。バランスが悪い。
ほかの職員が全員立ち上がった。
ぼんやり新聞や雑誌を見ている枯れ木たちは微動だにせず、獲得したポジションを死守している。
幻なのか現実なのか、しばらく岸田には区別がつかなかった。
男の手に錆びたナイフがある。
そのまま女を引きずるようにして、トイレに向かって動いていく。
「きゃー」
悲鳴が聞こえた。
「やめてください!」
警備員が駆け寄っていく。ナイフを女に向けているので近づけない。
大きなボタンのついた多目的トイレのドアを開けて、男は女を連れ込んだ。
ドアが静かに閉じていく。
高温の炉に棺を入れるように。
冷たい風と雨音。自動ドアが激しく開く。
重い激しい靴音がし、警官が一人、走って図書館に入っていく。
警備員のうち、あとから来た者たちは、さっきの親子連れやほかの人たちを外に誘導しはじめた。
こうなると枯れ木は後回しだ。
火葬場に連れて行かれるか、雨の中へ放り出されるか──。
ぼんやりと館内の騒動を眺めている岸田に、微かな甘い声が届く。
「おとうさん?」
後藤さん、と聞こえた
後藤ではない、いや、後藤だったのか……。
「後藤?」
すぐ横に小柄でやや太って、丸く真っ白な女が立っていた。
岸田は大福を連想してしまう。ごくりと生唾を飲む。
透明な安物のビニール傘を手に、上手に蒸し上がっている大福。湯気が見えた。
大福は、泣き出しそうだ。
「おとうさん!」
自信を深めたのだろう。はっきりと言われて、岸田は少し揺れた。
館内には戻れない。雨の中へ出るしかない。逃げるしかない。おかしな女に捕まるのも怖い。
人々がぞろぞろと外に出ていく。
岸田もその列についていく。
雨の中に出たとたん、待っていたかのように、大福は岸田の上に傘を差し掛けた。
現実が押し寄せてくる。飲み込まれる。その恐怖に岸田は呆然としていた。
おとうさん。それは、この大福女の父親という意味なのだろうか。
「やめろ!」と叫び出したい衝動がありながら、声は出ない。喉がピタッと塞がっている。
言葉が出ないので、大福女を、ぶん殴りたい衝動に切り替わる。もし殴ったら、柔らかすぎて腕が埋没するだろうか。爆破すれば、粉が飛び散るだろうか。
「うわあ、あんこが飛び出ちゃう!」
そんなことを言うはずもないのに、岸田には聞こえるのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます