第1話 におい 3

 八時間。空がうっすら明るくなっていくのに、雨はまだ止まない。

 限界を超えた岸田はそこで倒れ、発見した新聞配達員によって救急車が呼ばれ、病院に運ばれた。

 死に損ない。

「誰か、身元を確認をしてくれ」

 余計なことを。どうせ治療費など払えないのだから隙を見て逃げ出すしかない。

 もっとも、おざなりではあるが、髪や顔や手足を拭いてもらうのは気持ちのいいことではあった。

 肉体が喜んでいた。感覚が踊っていた。

 理性は溶けて流れているので、欲望しか残っていない。クリスマスのご馳走……。

 体力が少しでも回復してきたら、逃げる。

 トイレへ行くふりをして、もっさりと立ち上がり、脱がされたボロ服は諦めて、半裸のまま雨の町に戻っていった。

 いつもの町はどこもかしこも濡れていた。

 岸田がうろついていると、声がかかる。誰かは知らないが同じような枯れ木だ。

「おお、どうした」

「ちょっとな。服を取られた」

「あるよ、ここに」

 仲間のくれた服を着ると、理性は少し戻ってきたような気がした。

「こいつもやるよ」

 青いキャップ。

 理性は服に宿るのか。ポケットの中とか、そんなところに潜んでいて、身につけた者に寄生するのか。

 いいや、簡単じゃないと、岸田は気を引き締めた。

 流れてしまったものは戻らない。最初にあった理性の量には、足りない。

 流された人は戻らない。

 二度と雨の中、外で立ち続けたくはなかった。耐えられないのだ。それだけの根性があれば、そもそもこんな生活はしていない。

「そんなもの生活とは呼べないぜ」

 警備員が雨を見ている岸田のすぐ横に立っている。岸田を保護するのではない。岸田以外の人たちを保護するのだ。

 出て行け、いますぐ……。

 憲法で言うところの最低限の生活ではない。だから、岸田は生きていない。生活もしておらず、人間でもない。枯れ木。

 ここに理性の満たされていない、得体の知れない肉体がある。

「薄気味悪いよね」

 自動ドアが開き、湿った冷たい空気が岸田を包む。雨音は声も聞き取りにくくなるほどだが、ドアが閉じると、制服を着た中学生か高校生の声だけが、残る。

 岸田は不快ではなかった。

「こうなるなよ」と願うだけだ。「もしこうならない方法を知っているなら、なるな。知らないなら、大至急、学ぶのだ、大至急」

 ドアの向こうでは、三人ほど、さっきつまみ出された枯れ木たちが亡霊のように立っている。ビニール傘をさしている。どこかに行けばいいのに、行くあてがない。

 彼らがよくゴロゴロしていた国道にかかる橋の下も水没してしまった。この近くに川などはないのに、川のようになってしまった。

 岸田はふと振り返った。

 岸田のあとに場所を取り新聞を読んでいた男が、すっと動いている。

 警備員は彼をつまみ出すべきだ。

 困っている人はいないかと口元にモナリザのような笑みを浮かべたまま見回している例の女職員のところへ、男がなめらかに移動していく。

 男になにかを聞かれ、その女はまじめな表情で指を差す。トイレの場所を聞いたのだ。

 この図書館ははじめてなのか?

 雨の中で立っていられないのなら、歩き回るしかないのだろうか。岸田はまた、外を見る。

 歩いていれば立っているよりはマシだろうか。空腹で歩ける距離には限界はあるし、その結末はやっぱり救急車か死体運搬車かもしれない。

 岸田の頭の中に言葉が浮かんでは消える。

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