第1話 におい 2
「いつもいるよねー」
「ああいうの、居なければいい所なんだけど……」
職員たちだって昼食時にそんな会話をしているに違いない。
「なんとかならないのかしら」
「追い出す方法があればいいのに」
これ以上、顔をしかめたりすれば、人間であることを認めてしまうことになる。景色に溶け込んだ枯れ木にとって、人間を意識する必要はない。
「あの人たちだって社会の犠牲者なんだよ」と言う者は、おそらく三十年ぐらい前まではいたかもしれない。いまは、いない。
来た……。
完全にあれが、来たことに岸田は、わずかに新聞を持つ指先を震わせ、それが乾いた紙に微かな音を与えた。
扉が開いていく。今日はゆっくりだ。ただ受け止めるだけ。なにを見せられるのか?
目の前の新聞は消え、真っ赤な手が浮かびあがった。細い指。握り締めているのはナイフ。血の滴る錆びたナイフ。
岸田は目を凝らす。その向こうにいるのは、まじめそうな太い縁のメガネをかけた丸顔の女で、顔にも血が飛び散っていた……。ナイフを持っているのはこの女なのだ。
そこで、目の前は文字が整然と並ぶ灰色の紙面に戻っていた。
いったい、なんだったのだろう。
種明かしはいつもずっとあとにやってくる。岸田はそれを楽しみにしているのではない。怯え、恐れているだけだった。
ふと目を上げると、いま見えた顔に似た女職員が、幼い子を連れた母親に児童用のコーナーを教えている。そこは枯れ木たちは入ることのできないエリアだ。安全なエリア。
早く行くんだ。安全なところへ。
突然、岸田は新聞を放り出す。枯れ木のフリをやめた。
カーキ色の作業着とようやく乾いてきた青いキャップ、まだ中はぐちゃっと湿れ気を感じる穴の開いたスニーカー。足音は外の雨音にまぎれる。
振り返るまでもない。いま岸田のいた場所には新たな枯れ木が立っている。
呼吸が荒くなる。ここを出れば外は雨。
岸田は、自分が社会の犠牲者だと思っているわけではない。
「運が悪い人たち」で片付けられるのも癪だったが、運で片付けてくれた方がいい。
すべては運だ。
警備員が待ってましたとばかりににじり寄ってくるのがわかる。枯れ木ではなくなったら、放り出される前に自ら出る。
冷たい雨の中へ出よう。
枯れ木は水を受けて蘇るだろうか。
岸田はつい先日、なすすべもなく雨の中に立っていた。最初の三十分はどうということもなかった。バスを待つように佇んでいた。やがて、開店前のパチンコ店に並ぶように。
時間が経つにつれ、なにかが削り取られていることに彼は気づいた。大切なものが、雨によって少しずつ浸食されて排水口へ流れていってしまう。
例えば理性。
理性は水溶性らしく、雨で皮膚に穴が開き、肉に溝が掘られ、やがて骨の髄から溶け出してしまう。
二時間もそうしていると、居ても立ってもいられなくなる。だが、体力を失っているので、なにもできないのだ。根が生えたように。
感覚よ、なくなれ! そう念じたところで、神様は最後まで苦しみを感じるようにお作りになられたらしく、無感覚ではいられない。
雨の中を走り回ろうか。このみっともない姿を罪もない誰かに見せつけてやろう。そして猛スピードで水しぶきを上げているトラックに飛び込んでやろう……。
ブオーンと警笛が耳に刺さる。
思うだけで、体は動かなかった。
この狂おしさを愛せと言うのか。
三時間。長い野外コンサートも終わりだ。聴衆は大人しくポンチョを着たまま帰っていく。仕事は終わりだ。仕事ならば。立っているだけでなにもしないで三時間過ぎて行くと、さまざまな幻覚にとらわれることを、岸田は発見した。
「ねえ、マッチを買って」と寒い雪の夜に彷徨っていた少女の気持ちがわかる。理性はとうに失われ、幻覚しか見ることができない。そして死へまっしぐらだ。
クリスマスのご馳走。
岸田の記憶にはないものだ。借り物に過ぎない。
あの少女は体力があったのだろう。だからきっと死ぬ瞬間まで感覚はあったのだ。マッチの火で肌を焦がして、感覚がなぜなくならないのかと神を恨んだに違いない。
無感覚になれば楽なのに。
凍死させてくれ!
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