底辺かける高さ

本間舜久(ほんまシュンジ)

第1話 におい 1

 雨は温いが、間断なく降り続け、地上にあるすべてのものをしっとりと濡らすだけでは気がすまない。地面の中はもとより側溝、地下に埋め込まれた人間の工作物までも、すっかり濡らしてしまう。

 岸田修造は、大きな窓の外を眺め、手元の新聞に目を戻す。枯れ木のようなその顔に、表情はない。

 視界の隅に、岸田のような男たちを見つけて顔をしかめる女性の姿が映ったので、反射的に目をそらせたのだ。

 なんと、健康的で文化的な人たちだろう、と彼は思う。その圧力を感じていても彼の周辺にいる無表情な人々は枯れ木と化していた。

 顔をしかめた人たちも、塑像になっていく。枯れ木になにを言っても聞こえずまともな話し合いにはならないばかりか、思いがけない暴力を引き出してしまう可能性もあるから、塑像たちは足早に遠ざかる。

「なに、このニオイ」

「臭い……」

 わずかに動く唇から、そう聞こえそうだ。

 岸田は何日も風呂に入っていない。入れないわけではないが、面倒だった。支給された服も洗濯を怠っている。雨続きだから。

 四日ほど雨が続いていて、岸田にとって昼間立ち寄れる乾いた場所は、この市立図書館だけだった。

 不快なのはお互いさまだ。いけないのは雨だ。

 たとえ風呂に入ったとしても、たとえ洗濯したとしても、アロマの香りだとか、長く続く抗菌作用、ニオイ菌の繁殖を防ぐ作用などとは縁がない。

 図書館の開架式のフロアには、そんな枯れ木が何本も見受けられた。立って読む新聞、座って読む雑誌と、枯れ木たちはひたすらまじめそうに読む。

「臭えぞ、臭えやつは出て行け!」と言いたい人たちの圧力を感じながら。

 岸田自身、ムッとする臭気に気づかないわけがなかった。外にいればそれほど気にならないのに、ここに来ると嫌でもわかる。暖房のせいもあるだろう。腐った空気の中で表情に出さないでいる。

 漫然と新聞を眺めている。めくる動作も一定のリズムだ。

 あの感覚がまた来るだろうか……。

 あの赤い光がまた襲うのだろうか……。

 重い扉を開くときのように、それは、最初かすかな赤い光でしかない。

 中年の眼鏡をかけた男がやってきて、枯れ木たちのわびしい森をじっと眺めている。

「よく生きてられるよね。図書館でのーのーと新聞読んでられるよね」

 岸田にはそう聞こえた。おそらく図書館の係の女性と違うことを話しているのだろうが、彼にはそう聞こえるのだ。

 なにもしてくれない神様に敬意を払う必要はない。

 岸田は宗教の本の広告を見て、そう思う。ビリビリに破きたいが、なにもしない。

 目立ったら、なにをされるかわからないから。

「雨の中へ放り出せよ、少しはニオイが消えるかもしれない」

 中年男は、一冊の本を手にしてなにかをしきりに女性に説明している。

 じゃあ、一緒に雨の中、立ちんぼしてみるか?

 岸田は、男を羽交い締めにして、一緒に雨の中へ出て行きたい衝動を抑えていた。

 図書館の受付や管理をしているのは、専門の派遣業者であり、彼女たちは重い本を扱い、わけのわからないリクエストをする老人や、その中年男などの相手をし、よごされたり破られた本を発見して我が子のように嘆き哀しみ、ときどき枯れ木の森を見る。

 気遣っているのではない。窓から外を見るように、目を遠くにやれば森があるだけのこと。

 新聞は今週の朝刊を束ねたもの。それを一ページずつ眺めていく。

 そのとき、視界の隅に、赤い光を感じて、岸田ははじめて口元を歪めた。

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