54:ラース山脈2(ジーナのとっておき)

 びゅうと強い風が、遮るもののない山肌を吹き抜ける。ラース山脈の稜線へたどり着いた四台の馬車は、速度を上げて走り出した。

 オルガン馬車の御者台の上で、どこまでも続く山並みを見つめ、ニースは感嘆の声を漏らした。


「うわあ……! すごいですね! あんなに遠くまで見えるんだ」


 ここまでの山道と違い、稜線を通る道には、大きな岩は少なかった。背の高い木はほとんどなく、低木もまばらにしか生えていない。

 春の草が小さく芽吹く山肌には、砂礫されきを含んだ黒っぽい土が山の峰を結ぶように、細い道を描く。山頂付近には万年雪が残るが、比較的標高の低い場所ではすでに雪は解け、所々に小さな小川のように水の流れを作っていた。


 キラキラと瞳を輝かせるニースに、手綱を握るラチェットは笑った。


「そうだね。こんなに気持ちいいとは思わなかったよ。風は冷たいけど、意外と暖かいものだね」

「そうですね」


 春とはいえ、標高の高い山の上だ。まだ空気は冷たく、風が吹くとより寒さを感じる。それでも、日中は春の陽射しがぽかぽかと照らすので、比較的暖かさはあった。

 雄大な景色に時折見惚れながら、ニースたちは皇国を目指し、進んでいった。


 一行は夕暮れ前に野宿をし、長い旅の中で、寒さに体温を奪われないように気をつけた。日の出ているうちに出来る限り距離を進み、夜は早めに眠る。そんな日々を、ニースたちは何日も過ごした。


 そうして二十日ほどかけて、ラース山脈を通る道の半ばまでやって来た一行の前に、「地獄への通り道」とニースが言った言葉そのもののような道が立ちはだかった。

 馬車を止め、全員が馬車から降りて、死と隣り合わせの恐ろしい道を眺める。メグが小さな悲鳴を上げて、顔を覆った。


「うそでしょ……本気でここを通るの?」


 それまでの山道も、細くはあった。稜線には切り立った崖のような部分も所々にあり、少し遠くへ目を向ければ、大穴に繋がる大地の裂け目が見え、真っ暗で底の見えない暗闇が口を開けているのもわかった。しかし、それでもまだ良い方だった。


 小さな峠を越えて、これから進む道を視界に入れることが出来た一行の目の前には、ナイフのように薄く尖った山の背を、綱渡りでもするかのような狭い道が、細く長く続いていた。

 馬車の車輪の幅とギリギリ同じぐらいの、狭い道の下に広がる、深く暗い裂け目の底は見えない。眩い日の光が照らすのは、草木の生えない急崖きゅうがいの上部だけだ。

 一歩足を踏み外したら。馬車が少しでも脱輪したら。一気に大地の裂け目へと飲み込まれてしまう、身もすくむような細道が、一行を待ち受けていたのだった。


 想像を絶する危険な道に、メグだけでなく、グスタフ、マルコム、ラチェットも愕然としていた。皆を宥めるように、アントニーが笑いかけた。


「まあ、みなさんの馬車のように、ここまで大きな馬車で通ったことは、正直今までありません。ですが、慎重に通れば大丈夫なはずです」


 アントニーの言葉に、メグは金切り声を上げた。


「はずって……。いま、って言ったわよね⁉︎」

「うわっ、危ない! メグ、ダメだって!」


 アントニーに掴みかかろうとするメグを、ラチェットが必死に止めた。

 一行が立っている場所は、目の前に広がる絶望的な狭い道ほどではないが、それでも取っ組み合いが出来るほど広い道でもないのだ。

 しかし必死なメグとは対照的に、アントニー親子は気にするそぶりもなく、のんびりと答えた。


「今から出発すれば、日暮れ前にはこの難所を抜けられるはずです」

「まあ、ここが一番の難所だから。お嬢さんも諦めなって」


 アントニー親子の言葉に、メグは、がくりと膝をついた。ラチェットがメグの背を支え、宥めるように声をかける。

 そんな二人を横目に、マルコムがニースの肩に手を置いた。


「ニース、大丈夫か?」


 マルコムの言葉に、ニースは答えられなかった。

 ニースは、カタカタと小刻みに震えて、目の焦点が合っておらず、今にも口から泡を吹いて倒れそうなほど、恐怖に震えていた。

 ニースのは、一座の誰よりも酷かった。小さなニースの、あまりの怖がりように、アントニー親子は困ったように顔を見合わせた。



 一行は仕方なく来た道を少し戻り、対策を考えることにした。背の高い木が比較的多く、風の吹き込みにくい開けた場所に、グスタフたちは馬車を止めた。

 御者台から降りると、グスタフは、はぁとため息を吐いた。


「あんな道、どうやって通れば……」


 アントニーが、気遣いながら語りかけた。


「朝一番に出発して、ゆっくり進みましょうか」

「親父。そこまでしなくても、昼前に出るぐらいで、充分間に合うんじゃないか?」

「いや、それは無理だろう」


 グレゴリーも会話に混ざり、三人は難所を越える方法を真剣に話し始めた。


 グスタフたちが相談している間、ニースたちは野宿の準備を始めた。馬を休ませると、ニースは暗い表情のまま倒木に腰を下ろした。

 戦々恐々とする一座の中で、ただ一人動じなかったジーナが、張り切って袖をまくった。


「少し早いけどー。夕食の支度を始めちゃいましょうかー」


 ジーナは場を和ますように、料理の腕を振るい始めた。火を起こすと聞いてニースは少し元気を取り戻し、手伝った。

 ニースが火を起こすと、ジーナは何本も炭を加え、火を移していった。ニースは何を作るのかと興味を抱いた。


「ジーナさん、なんでそんなに炭を使うんですか?」

「うふふー。ちょっと美味しいのを、作っちゃおうと思ってねー」


 ジーナは笑いながら答えると、マルコムに小さな穴を掘らせた。


「マルコムー。鍋が入るぐらいにしてねー」


 ジーナは楽しそうに、小麦粉に膨らし粉とバター、少しの水を練り混ぜる。そこへさらに、刻んだチーズと蜂蜜漬けの果物を、蜂蜜ごと混ぜた。

 ジーナは、ニースのように真っ黒な分厚い鍋に、薄く油を敷いて、底に丸く切った蝋引き紙を敷く。そして、先ほど練った生地を流し込み、蓋をした。

 マルコムが掘った穴の底に火のついた炭を入れ、その上に蓋をした鍋を乗せると、さらに蓋の上にも炭を乗せた。


 ぼんやりと様子を見ていたメグが、身を乗り出した。


「あ、お母さんのとっておきじゃない」


 メグは知っているようで、口元をゆるめた。ニースは、きっとものすごく美味しいものが出来るんだろうと思った。

 続いてジーナは、ラチェットに野菜を切るよう指示を出した。


「せっかくだからー。少し奮発しましょうねー」


 ジーナは新しい鍋に油をひいて熱し、ラチェットが泣きながら刻んだ玉ねぎや根菜を軽く炒める。そして、水と豆、瓶詰めのトマト、ハーブを共に加え、火にかけた。

 そこへ、アントニー親子との相談を終えたグスタフが、ウキウキした様子でやってきた。


「お、いいトマトの香りだ。蜂蜜の匂いもするな。ジーナのとっておきかな?」


 嬉しそうなグスタフに、残念そうにジーナは肩を落とした。


「そうよー。でも今日は、お肉がないのよねー。干し肉を入れてもいいんだけどー。これにはやっぱり、新鮮なお肉の方が美味しいからー」


 するとその時、突然木々の葉が大きく揺れた。一行が目を向けると、大きな熊が茂みの中から顔を出した。熊は、料理の香りにつられて、やってきたのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る