55:ラース山脈3(初めての戦い)

 目の前に突然現れた熊に、一行は反応出来なかった。それは熊も同じだったようで、ほんの束の間、互いに目を合わせ固まった。


 ……最初に動いたのは熊だった。


「グアァァ!」


 熊は、目の前にいる人間たちの中で一番小さなニースを鋭い目で捉えると、唸り声を上げ走り出した。


「ひっ……!」


 大きな声に、メグとニースはびくりと身を震わせた。


「メグ!」「危ない!」


 恐怖に固まる二人を庇うように、ラチェットとジーナが熊との間に立ち塞がる。

 グレゴリーが素早く弓矢を取り出し、グスタフは馬の鞭を手にする。マルコムは咄嗟に、近くにあったラチェットのナイフを手に取り、立ち上がった。

 アントニーが槍を手に、皆の前へ走り出た。


「させるか!」


 槍を突き出そうとしたアントニーに、熊は腕を振り上げた。


「グァウッ!」


 熊の振るう爪を、アントニーは槍先で受けたが、そのあまりの勢いに弾き飛ばされた。


「ぐっ!」


 飛ばされたアントニーに、グスタフとマルコムが巻き込まれ、三人は重なるように倒れた。

 アントニーを援護するためにグレゴリーが放った矢は、身をよじった熊をすり抜けてしまった。


 一瞬の攻防でアントニーたちを退けた熊は、そのままジーナとラチェットに向かい、即座に大きな腕を振り上げた。

 ニースには、その一瞬がとても長い時間のように感じられた。


 ――どうしよう、どうしよう!


 ニースの脳裏に、伯爵に斬りかかられた時のことが蘇った。当時は、アンヘルの護衛だったダミアンが助けてくれたが、ダミアンは今、ここにはいない。

 これから起こるであろう出来事が、ニースの意識に一瞬のうちに思い浮かんだ。それは、丸腰のジーナとラチェットが、たやすく熊に切り裂かれてしまう光景だった。


「あぁぁぁぁぁ!」


 考えるより先に、突き動かされるようにニースは動いていた。ニースは叫びながら、腰に下げていた木剣を抜き、一足飛びに熊に向けて突き出した。


「ガッ⁉︎」


 突然現れたニースに、熊は驚いた。熊のふるった爪はニースの木剣を切り裂きながら、地面を抉る。ニースが咄嗟に突き出した木剣で、熊の勢いは削がれ、爪が描く軌跡を変えたのだった。


「ぐぅっ……!」


 マルコから餞別にもらった木剣は、見事にその役目を終えた。ニースは、木剣が折れる勢いで吹き飛ばされたが、辛うじて膝をつくと、熊を睨み、大声で叫んだ。


「来るなぁぁぁぁ!」


 その迫力に怖気付いたのだろうか。それとも、自分の攻撃を小さな人間に防がれたからだろうか。熊は一瞬、ニースを見つめ、動きを止めた。


 その瞬間、グレゴリーの矢が、ニースの右頬をすり抜けた。


「グァアアッ!」


 熊の大きな叫び声が上がる。熊の左目には深々と矢が刺さっていた。

 熊は痛みに身をよじるが、傷をつけたグレゴリーに反撃しようと再び腕を振り上げた。しかし、そこへアントニーの槍が突き出され、熊の心臓を一気に貫いた。


 熊には何が起こったのかわからなかっただろう。熊はそのまま立ち尽くし、アントニーが槍を引き抜くと、胸から血を吹き出して、後ろへ倒れた。



 焚き火の炎が揺らめき、湧いた鍋から湯気が上がる。つい先ほどまで命のやり取りをしていたはずの藪の中には、食欲を誘ういい香りが漂い始めた。


「新鮮なお肉が来て良かったわねー」


 鍋をかき混ぜながら、のんびりと言うジーナに、メグが鼻をすすった。


「もしかしてそれ、さっきの熊なの?」

「そうよー」


 熊との死闘のあと、一行の緊張の糸はぷつりと切れた。ニースは呆然としたまま立ち尽くし、メグは怖かったと泣きじゃくった。ラチェットは腰を抜かし、グスタフとマルコムは役に立たなかった自分を責めた。

 そんな中で、アントニー親子が慣れた手つきで熊をさばくと、ジーナは陽気に熊肉の調理を始めた。ジーナにとって熊の襲撃は、肉屋が注文の品を届けてくれたようなものだった。


 鼻をくすぐる美味しそうな香りに、ラチェットが顔を上げた。


「ジーナさん。なんでそんなに元気なんですか?」

「無事だったんだものー。いつまでも落ち込んでたって、仕方ないでしょー」


 ジーナの言葉に、グスタフとマルコムが苦笑いを浮かべた。


「確かに、ジーナの言う通りだな」

「落ち込んでるよりは、美味いものを食った方がいい」

「そうよー。熊肉のトマト煮込み、もうすぐ出来上がるから、待っててねー」


 匂いに胃袋を刺激されて、アントニー親子が、ぐぅと大きな音を鳴らした。空はまだまだ明るいが、一行は、そのまま夕食を取る事となった。


 出来上がったばかりのトマト煮込みを、ジーナは次々に皿に盛る。緊張が解けて、一気に空腹を感じたグスタフたちは、我先にと皿を手にし、食べ始めた。

 しかしニースは、受け取った皿を、ぼんやりと見つめるだけだ。メグが心配そうに、声をかけた。


「ニース、大丈夫?」


 ニースは、未だ戦いの衝撃から立ち直れていなかった。ニースが初めて剣を取った戦いの相手が、熊だった。相対した相手が、目の前に肉となって出てきても、生き残った実感が湧かないのは、仕方のない事だった。

 マルコムとラチェットが、宥めるように語りかけた。


「ニース。怖かったかもしれないが、お手柄だったぞ。元気を出せ」

「そうだよ。ニースがあの時、熊の爪を防いでくれなかったら、僕とジーナさんはきっと死んでた」


 ラチェットの言葉に、ニースは、ぷるりと身を震わせた。


 ――そうだ……。あの時もしかしたら、ぼくたちは死んでたかもしれないんだ……。


 震えるニースに、ジーナがそっと近寄り頭を優しく撫でた。


「ありがとうねー。ニースくーん」


 ニースは、こぼれ落ちそうな涙をぐっと堪え、震える手で肉を口に運んだ。

 先ほどまで、ニースと向かい合っていた熊の肉が、トマトの酸味と共に口の中に広がる。ぽろり、ぽろりと、ニースの目から涙がこぼれた。それは、生きている事を噛み締めたニースの、安堵の涙だった。

 ニースが食べ終えるまで、ジーナはそっと、頭を撫で続けた。

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