43:帰ってきた家族2(優しい母)

 鍋から立ち上る湯気が、朝日に煌めく。リンドは涙を拭うと、台所の片隅にニースを座らせた。

 リンドは、すっかり煮えた鍋を火から下ろし、ヤギ乳を二人分、カップに注ぐ。腰掛けに座るニースは、リンドを気にしながらも、何も言わずにカップを受け取り、口を付けた。

 リンドは木箱に腰を下ろし、自分もヤギ乳を一口飲むと、ふぅと息を吐いた。


「ごめんね、ニース。急に泣いたりして」


 ニースは飲みながら、ふるふるとかぶりを振った。リンドはニースを見つめたまま、静かに言葉を継いだ。


「ニースが旅に出るって、父さん……おじいちゃんから聞いたわ」


 リンドは前日の晩に、マシューからニースの旅立ちについて、話を聞いていた。そのためリンドは、一晩中泣いていたのだった。

 ニースはカップから口を離すと、口に含んだヤギ乳をごくりと飲み込み、俯いた。


「……ごめんなさい」


 ニースのか細い声を聞いて、リンドは、ふっと笑みをこぼした。


「あーあ。坊っちゃまと……ニースとようやく家族になれるって、楽しみにしてきたのになー」


 リンドの声は、わざとらしい程に明るい声だった。ニースは申し訳なさでいっぱいになりながら、リンドの顔をそっと覗き見た。リンドは、にっこりと笑顔でニースを見つめていた。その笑顔は、何の含みもない優しい笑みだった。


「でもね、ニース。私は嬉しかったの。悲しくて寂しくて残念だったけど、嬉しかったのよ」


 リンドは、そっとニースの頭を撫でた。


があって、ニースがもう歌わないんじゃないかって、私は心配したの。でも、数ヶ月後におじいちゃんから、ニースが歌を歌うようになったって、手紙をもらったわ。それを読んで、私はすごく嬉しかった」


 ニースは、リンドの手の温もりを感じて目を伏せ、じっと聞いた。


「そしてね、驚いたのよ。マーサおばさんだけじゃなく、羊にまで歌を聞かせてるっていうんだもの。羊もニースの歌が好きだって聞いて、本当に驚いたわ」


 リンドは、ふふっと笑うと、ニースの頭から手を離した。ニースは、リンドがなぜ想い出話をするのか分からず、戸惑いながらも頷いた。


「うん……。ぼくも、羊がぼくの歌を好きになってくれるなんて、思わなかったよ」


 小さく呟いたニースに、リンドは安心させるような優しい笑みを浮かべた。


「ニースの歌はね、聞く人を幸せにする力があるんじゃないかって、お母さんは思うの。歌の力って意味じゃなくね」


 リンドは昔を思い出すように、ニースから視線を外して、遠くを見つめた。


「ニースのお母さん……クララは、とても優しい人でね、クララが庭に掃除に出ると、小鳥やリスが近くに寄ってきたのよ」


 ニースは急に出てきた産みの母の話に、きょとんとした。


「ぼくの、母さま……?」


 リンドは微笑みを浮かべ、話を続けた。


「クララのエプロンのポケットには、古くなったビスケットやパンの耳がいつも入っていたの」


 愉快げに、ふふふと笑うと、リンドは再びニースに目を向けた。


「でもね、それだけが理由じゃなかったと、私は思ってる。クララが優しいことは、動物たちも分かっていたんじゃないかしら。だから、そんなクララが産んだニースの歌を、羊が気に入っても不思議じゃないと思うのよ」


 ニースは、初めて聞く母クララの話に驚いたが、何も言わずにリンドの話の続きを待った。


「ニースは、歌を歌うのが大好きだったわよね。歌の力のあるなし関係なく、ニースは歌が好きだった。私ももちろん、ニースの歌が大好きだわ」


 リンドは、口元に笑みを浮かべたまま、ふっと切なげに顔を歪めた。


「だからね、ニース。ニースの歌は、きっと世界中の人たちが気にいるわ。お母さんたちだけの歌にしておくのは、もったいないことなのよ」


 ニースは、リンドが何を言わんとしているのかに気付き、ごくりと唾を飲み込んだ。リンドの青い瞳には、うっすらと涙が滲んでいた。


「だからね、行っておいで。世界中のたくさんの人に、ニースの歌を届けておいで。学校で歌の力が取り戻せても、取り戻せなくてもいい。私たちは、ニースをここで待っているわ。ニースの帰る家はここで、私たちはもう家族なんだから」


 リンドは立ち上がり、くるりとニースに背中を向けた。涙を拭い、カップに残ったヤギ乳を飲み干すと、リンドは振り向いて優しい笑顔をニースに向けた。


「さあ、ニース。ミルクを飲んだら顔を洗ってね。美味しい朝ごはんを用意するから」


 窓から射し込む朝日の中、リンドが笑って朝食の支度に戻るのを、ニースはじっと見つめた。涙を滲ませたニースの目には、リンドの背中が春の陽だまりのように、きらきらと輝いて見えた。


「お母さん……ありがとう」


 ニースは、ぽつりと呟いて、ヤギ乳を一気に飲み干した。柔らかな乳白色の優しさが、ニースの身体に染み渡った。

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