42:帰ってきた家族1(リンド一家)
春の優しい日差しは町だけでなく、マシューの牧場も照らす。ラチェットと別れ、ニースが牧場へ帰り着くと、遠目に見える家の前に、大きな荷馬車が二台止まっていた。
――何だろう? 羊毛の受け取りの人かな?
不思議に思いながら、ニースは小道を歩く。御者と思われる人々が、荷馬車に積まれた荷物を家の中へ運び込むのを見て、ニースは、はっとした。
――もしかして、この馬車って……。
ニースの胸が、ドキドキと早鐘を打つ。懐かしい女性が玄関先へ出てきて、御者たちに指示を出した。ニースは大きく手を振り、声を上げた。
「リンド!」
リンドは、はっと辺りを見回しニースの姿に気づくと、ニースに向かって走り出した。
「坊っちゃま!」
リンドは両手を広げて真っ直ぐ駆け寄り、ぎゅっとニースを抱きしめた。ニースは、懐かしい温もりに顔をほころばせた。
「リンド……ううん、もうお母さんなんだよね。おかえりなさい」
照れて、はにかみながら言うニースに、リンドは目を見開いた。
「まあ! 坊っちゃまからそう言っていただけるなんて!」
リンドは嬉しそうに笑うと、ニースの肩を両手で、ぽんと叩いた。
「坊っちゃまなんて、呼んではダメね。これからは、ニースと呼びます。あ、敬語もなしにしないとね。なんたって、私はあなたの
「うん」
満面の笑みを浮かべて宣言したリンドに、ニースはくすぐったく感じ、微笑んだ。リンドは、感激した様子で言葉を継いだ。
「ほんと、ニースったら大きくなって! こんなに立派に育って、お母さん嬉しいわ!」
「お母さんは、全然変わってないね」
照れくささから、えへへと笑ったニースに、リンドは微笑みを浮かべた。
「さあさ、家に入りましょう。みんな待ってるわ」
リンドに手を引かれて家へ向かいながら、ニースは先ほどとは違った意味で、胸が鳴るのを感じた。
――ルポルたちに会うの、久しぶりだな。ちゃんと仲良く出来るかな。
小さな不安を感じ、ニースは繋いだリンドの手を、ぎゅっと握った。リンドは、ふわりと笑みを浮かべ、温かな手で握り返した。ニースはほんの少し、緊張が和らぐのを感じた。
家の中は、ニースが朝見た景色から一変していた。所狭しと置かれた木箱に埋もれながら、リンドの家族が荷物を紐解き、整理していた。
「はーい、みんな。こっち向いてー」
リンドが声を上げると、全員が振り向いた。
「みんな、
リンドがニースを紹介すると、顔のそっくりな男女の双子が声を上げた。
「え⁉︎ ニース⁉︎ こんなに大きくなったの⁉︎」
「そりゃそうよ、エミル。ニースと別れて何年経ったと思ってるのよ」
「えーっと、二年ぐらい?」
「二年九ヶ月よ」
「ヘレナ、よく覚えてるなぁ」
リンドと同じ茶色い髪を、二つに編んだ少女ヘレナと、短く刈り上げた少年エミルは、荷物の間を縫って歩み寄ってきた。
「久しぶりね、ニース。覚えてるかしら? 双子の妹、ヘレナよ」
「ニース、久しぶり! 双子の兄、エミルだよ」
双子の兄妹、エミルとヘレナは、親しげに笑いかけた。ニースは何か気の利いた返事を返そうと、二人の事を思い出そうとした。しかし、詳しい事は何も思い出せなかった。
「こ、こんにちは……」
気まずさを誤魔化しながら答えたニースの肩を、エミルが、ぽんと叩いた。
「昔はよく一緒に遊んだよなぁ。大きくなったな」
エミルの後ろから、ニースと同じぐらいの背丈の少年が声を上げた。
「何、おっさんくさいこと言ってんだよ、バカ兄貴」
「お、おっさん⁉︎」
「ニースは俺と同い年だぞ? 兄貴と四つしか変わんねーっての!」
「そんなに俺、おじさんっぽかった?」
愕然とするエミルを横目に、ヘレナが少年を睨みつけた。
「ルポルはいい加減その口調直しなさいよ。品がないったらありゃしない」
「へいへい。姉貴はご立派ですねー」
ルポルは、ニースの二週間前に生まれた、リンドの末っ子だ。ルポルが生まれたから、ニースはリンドから乳をもらえた。ニースにとってルポルは、一緒に育った大事な友達だった。
ニースは、ふわりと笑みを浮かべた。
「ルポル、久しぶり。ぼく、ルポルのことは覚えてるよ。会いたかった」
「な、なんだよ。照れるじゃないか……。俺もお前に会いたかったっつーの!」
ルポルは耳を赤くして、照れを隠すように声を上げた。二人の様子に、エミルとヘレナが肩をすくめた。
「ルポルのことは覚えてるってことは、俺たちのことは忘れてるのかー。ショックだなぁ」
「仕方ないでしょ。別れた時、まだニースは五歳だったのよ。これからたくさん思い出を作ればいいじゃない」
「それもそうだな! ヘレナはやっぱり賢いよ。うん」
「エミルが抜けてるだけでしょ。なんであんたと双子なんだか……」
エミルとヘレナの話を聞いて、ニースは気まずさを感じ、視線を落とした。そこへ、リンドの夫ダミアンが声をかけた。
「坊ちゃん……いや、ニース。大きくなったね」
ダミアンの優しい声に、ニースは緊張しながら、蚊の鳴くような声で答えた。
「えっと……。ありがとう、お父……さん」
ニースにとって「父さん」と呼ぶのは、勇気のいる事だった。言葉にすれば、どうしてもゲオルグが頭に浮かぶ。ニースの複雑な心境に気付いたダミアンは、ニースの頭に、ぽんと優しく手を置いた。
「ニース、無理しなくていいんだ。ダミアンと、名前で呼んでもいいんだよ」
「はい。ありがとうございます……」
声を絞り出したニースの気持ちを解すように、ダミアンは笑って、わしゃわしゃとニースの頭を撫でた。
「ニース。荷物がいっぱいなんだ。片付けを手伝ってくれるかい?」
明るく声をかけるダミアンに、ニースは救われる思いがした。感謝の気持ちでいっぱいになりながら、ニースはこくりと頷いた。
片付けを始める二人を見て、マシューとリンドは微笑んだ。しかし微笑みながらも、マシューは真剣な声音で、リンドに囁いた。
「リンド。あとでお前に言っておきたいことがある。今夜、子どもたちが寝た後に、ダミアンと一緒にわしの部屋へ来てくれ」
「……わかったわ、父さん」
マシューが急に真面目に話しかけたので、リンドは何事かと思った。だが、マシューが優しくも切ない眼差しで、ニースを見つめているのに気付き、何か大事な話があるのだと、リンドは感じた。
太陽が山陰から顔を覗かせ、夜闇が去りゆく。リンドたちがやって来てから迎えた、初めての朝。ニースがいつも通り目を覚ますと、誰かが一階で動く物音がした。
――誰だろう……。
ニースは、火起こしの番人だ。マシューより早く起きて、暖炉や竃に火をつけるのが日課だった。ニースより誰かが早く起きている事など、これまでなかった。
ニースは、すぐに服を整え部屋を出た。すると、何かを切っているのだろう、トントンと小気味良い音が階下から聞こえた。
――台所から? もしかしてリンド……お母さんかな。
ニースはそっと、台所を覗いた。リンドの優しい背中が、窓から差し込む朝日の中で動いていた。
ニースの考えた通り、リンドは朝食のスープを作るべく、大きめに切った具材を鍋に入れ、火にかけていた。子どもたち……特に双子は、育ち盛りだ。朝からしっかり食べさせることが、リンドの大事な仕事のひとつだった。
ニースは恥ずかしさを堪え、リンドの背に声をかけた。
「おはよう……お母さん」
まだ照れの残る声で挨拶をしたニースは、リンドの顔を見て、ぎょっとした。料理の手を止めて振り返ったリンドは、泣いたのであろう、目が腫れ上がっていた。リンドはニースの顔を見ると、新たに目に涙を浮かべて、ニースを抱きしめた。
「……ニース!」
リンドは抱きしめる手に、ぎゅっと力を込め、絞り出すように声を出した。ニースは唖然としたが、リンドが静かに泣いていることに気付き、両手をリンドの背に回した。
――お母さん……どうしたんだろう。泣くなんて、初めて見た。
ニースは、優しくリンドの背をぽんぽんと叩く。まだ背の低いニースは、リンドの背に手を回すのは難しかったが、心を込めて、リンドをなだめた。リンドは驚いたが、すぐにまた、くしゃりと顔を歪め、涙をぽろりとこぼした。
リンドが涙を拭い、ようやくニースから手を離す頃には、朝食のスープのごろりとした具には、すっかり火が通っていた。
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